アイデン・テイテイ・テテテテイ・クライシス

「五本指靴下を立ったまま履けること」が唯一の特技であるわたくしが、急に寒くなった気候に身を任せ早速その特技を活かそうと思った朝6時、片足のままふらふらとバランスを失いそれでも立て直してあっちに行ったりこっちに行ったりしている間に考えたことといえば「これは見ようによってはブレイクダンスに見えるのかもしれない」という心の底からどうでもいいことかつこのタイミングで考える必要が全く無いことであり別に何かと戦っているわけではないのだから潔く両足を床に着けばいいだけの話なのだが唯一の特技を失うことにより自己を認識する唯一の拠り所の崩壊を恐れているのか何なのかこの頃になるとなぜ己がずっと片足でフラフラしながら倒れかけのコマみたいな動きを模しているのかもわからなくなっており誰かどうにかしてくれないかと諦め始めた時に母の姉から電話がかかってきた。


 10月18日、日曜日。曇り。昨日あたりから急に冷え込んできた。


 電話が鳴ったので出なくてはならない。足を下ろさなければ電話までたどり着けないので、という言い訳を心の中で唱えつつ受話器を取り上げた。アイデンティティの崩壊から救ってくれたおばさん、ありがとう。

 やはり母の容態を聞かれたが、こちらが得ている情報も少ない。箇条書き的に説明をした。


「フォークが握れないので食事は介助。ベッドから車椅子への移動はまだできない。新聞や手紙を読むことはできる。テレビも観ている、らしいです」


 看護師から聞く限りここから容態は変わっていない。家にいるより安全なことは間違いないので、あまり気にしない方がいいですよと伝えた。どのみち何もできることはない。


「今日は日曜だけど、会えないかね」

「曜日に関係なく会えないです」


 何かあったら報告することを約束し電話を切った。おばさんに言ったように気にしてどうにかなるものではないので気にしない方が精神に良い。


 それにしても納得がいかない。先程は電話によって救われたが、なぜ立ったまま五本指靴下を履くことができなくなったのか。平衡感覚、体幹、足先の感覚のうち、いずれかがなまってしまったのか。たまたま朝の寒さで体が硬くなっていたのか。

 最も突き当たりたくない答えは半分見えている。クルマエビやテナガエビ、中華料理でよく出てくる琥珀色の醸造酒に共通する漢字一文字と狂気の笑い声イヒを組み合わせ、「廊下ろうか」と同じ音で発音する熟語が見え隠れしてしまっている。おいがしらを構成する土くらいは見えてしまっているだけに全力でそこから目をそらしているのだ。


 曇っているが洗濯物を干す。シャワーを浴びてストレッチを入念に行い、熱いコーヒーを飲む。天井に視線をさまよわせる。こうして体を温め、再度の五本指靴下立ったまま履きに挑むのだ。準備はもう十分すぎるくらいした。


 さっきは普段通り右から履こうとして、あとは人差し指と中指、薬指と小指だけを入れればいいというところで非情にも電話がかかってきてしまった。失敗したわけではない。別に何も気にしていないし一切の動揺もないが、今回は左足から何気なく履いてみたいと思う。


 ポイントは小指から入れていくことであるなぜかというと先ほどは親指から入れて早朝ブレイクダンスをダンスしてダンスする羽目にいやそれだけの余裕が見受けられ今のところ全く問題なく小指の穴に小指と薬指が入ってしまったから一度抜いてまた入れるとまた同じように小指の袋に小指と薬指が入ってしまい小指の袋はもうパンパンだからすんなりと小指が入りあとはスムーズに、履く、ことが、できた。


 二度も同じ失敗をしつつ、片足で立ったまま修正を行い、五本指靴下を履くことに成功した。先ほどの醜態はやはり寒さなりなんらかのせいであり、先ほど感じた答えはやはり勘違いだったのだ。


 最近筋トレ以外の運動をやっていなかったので、少し散歩してこよう。そうだ、それがいい。別に老化が怖くなったわけではないが、たまには表を歩かないとならん! ビバヤング!

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