不覚にも 君の目を見れなくて

 アドバンテージ・ルーシーというギターポップバンドの「めまい」という名曲がある。おそらくは随分昔に別れた恋人が偶然街で出会い、追憶に囚われるというものだ。

 女性は、まだ未練を引きずっている。季節が戻ればと思いながら、新しい生活を送る昔の恋人の話に背を向け、視線を避けている。タイトルはその一節から取った。

 そして最後に「低く優しい声を聞くたびにめまいがする」と締めくくられる。シンプルな構成ながらとても美しい曲なので、機会があったら是非一聴をお勧めしたい。


 昔は下北沢のクラブQueまで聴きに行ったものだ。その時に対バンをしていたプレクトラムのギタリスト藤田顕が、我が敬愛の佐野元春のコヨーテバンドに参加しているのも実に感慨深いが、この話はもうこれ以上全く進展しない。


 昨日、兄が「この本を取り寄せてくれ」と新聞の切り抜きを持ってきた。そこには「めまい〜それを治す方法〜」とある。今ギリギリで家が回っているのに、今度は仕事で運転する人間がめまいに襲われているときた。おれはため息をつき、力なく注意した。


「なら速やかに医者へ行きなさい」

「いや、おれじゃなくあっちが」


 兄が指差した方向には父がいた。


「めまいがするなら、なぜ医者に相談しないのか。こないだの往診の時に貴様『どこも悪くないですが、かゆいです』と言ってただろ」


 呆れ果てて詰問した。せっかくひと月に一度、医者が往診してくれているというのにこの意味の無さ。

 まあこのお医者さんもちょっとどうかと思うところがちょっとどころではないくらいある人なのだが、家に来てくれるというだけでありがたい。


 もしいまだ父を連れて通院しなければならないとしたら、その間母を家で一人にしておくことになる。現状を考えるとそれはできない。

 そうすると父の病院に向かうことが難しくなる。心情的に父のことは色々諦めているので多分行かなくなる。

 するとどうなるかというと、体調が悪化する。結果として一番過ごす時間が長い、自宅で息を引き取る可能性が高い。


 そうすると警察を呼ばなくてはならない。警察は介護者であるおれを横目で見ながら、ケアラーのくせになぜ病院に連れて行かなかったのかと問い詰めてくるだろう。その際ケアラー呼ばわりとはどういう了見かこの公僕めがとひと悶着あることが予想されるが、なにより「病院に連れて行くのがめんどくさかったんです」と言い張る度胸も無責任さもおれにはないのである。


 なので「なぜめまいがするなら医者に言わないのか」と改めて父に問うたところ、


「めまいなんてしない。いいからその本を買ってこい」


 と返ってきた。どうにも話が噛み合わない。今に始まったことではないが、話の噛み合わなさの根拠すら見い出だせずに考えていると、再び父が言葉を発した。


「めまいがした時に読むんだから買ってくればいいんだ」

「だからめまいがしたら医者に言え。自分が何言ってるのか理解しているのか」


 読んで治る病気があってたまるか。間違いなく「新聞に広告を出すような本だから立派なものだ」という認識でいる。新聞なんてカネを積めばおおよその広告は載せる。奴らは商売で新聞を作り、商売で世論を誘導しようとしているのだ。この姿勢は昭和初期から何も変わっていない。

 もっとも、世論の誘導は今後更に難しくなるだろうが。


 だが父はいまだに「NHKと新聞は絶対に正しい」という根拠のない考えにしがみついている。産経と朝日を同時に読ませたらどうなるのか気になるが、多分深く考えずにそのまま読み進めるのだろう。

 それはそれでいい。新聞なんて暇つぶしで読む大衆情報紙である。作る側が選民意識を持っていようが、読者には何も関係がない。

 なんだかんだ言っても、科学面やスポーツ面はどの新聞でも取材に力が入っていて大変面白い。多用される体言止めにも技術を感じる。ポリシーだとか社是なんて大半の読者にとってどうでもいいものなのだ。


 今はとにかく、無意味な浪費をやめさせたい。新書で1600円+税。もったいない。もったいないにも程がある。めまいがした時に落ち着いて本を紐解く人間は恐らくこの世にいない。

 あのね、とゆっくり説得しようとしたおれの言葉を父は遮った。


「読んでみなきゃわからねえだろ。いいから買ってこい」


 父はしゃがれた声で言った。その低く底意地の悪い声を聞き、おれはアドバンテージ・ルーシーの名曲よろしく、めまいに襲われたのだった。

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