洗面器さえあればなんでもできる

 父のわがままに翻弄され続けている。わずか3日前に戻って来たというのに、もう5回以上「殴った方がいいか」と感じている。


 老人ホーム入所中、トイレは一人で行っていたという報告を受けている。もともとうんこはともかく、尿は一人でできていた。

 男の尿なんてものは出すモノ出して放出するだけなのだが、父は左半身不随の一級障害者、名付けて一級さん(アクセントは最初のい)なので便座に腰掛けて用を足す。あとは立ち上がってパンツを上げるのだが、その作業を「やれ」と言って来た。誇張でもイメージでもなく、本当にそう言ってきやがった。その場面を文字にするとこうなる。


 ノックされたトイレのドア。うんこが出たから拭けの合図だ。ドアを開けると既に父が立っている。下半身はパンツが降りたまま。


「うんこか。なら座れ」

「小便だ」

「なら呼ぶな」

「お前がやれ」

「何?」


 流石に理解が追いつかず固まっていると、


「早くやれ!」


 と父は絶叫した。パンツとズボンを上げろという意味だとやっと納得しつつ、無視してドアを閉める。殴りそうになったからだ。一人でできていたものを家人にやらせる意味はわかる。「おれが一番大変でえらいのだから下の世話くらい積極的にやれ」という主張に他ならない。こういう場合は距離を置く。物理的にも精神的にも離れる必要がある。理解してやることなどない。


 また、戻ってきた日から2日間は「かゆいかゆい」と言わなくなっていた。戻ってきてからというよりも、老人ホーム内の温度が低めに設定されていたことが原因だろう。皮膚の痒みが消えたのだ。汗をかかずに済んだ為と思われる。これ自体は大変喜ばしいことである。ことであったのだが。


 家に戻るなり冷房を消せとわめき散らし、32度にもかかわらず長袖のワイシャツを着て順調にかゆいかゆいゲージを上昇させ、ついに皮膚をハサミで引っ掻き始めた。

 ここでも殴ろうと思ったが、ハサミを取り上げるだけにしておいた。バカと刃物は使いようと言うがそれはあくまでバカと刃物を分けてのことであって、バカに刃物を与えると自分の理屈で色んなものを切り裂き始める。


 そして夜中のことだが、母のうんこと父の尿の時間がついに被った。恐れていたアルマゲドンの勃発である。

 母は既にトイレでうんこをひり出している。そこへ何かをわめきながら父が車椅子で突撃。ドアへガツンガツンとぶつかっていた。完全に服を着たチンパンジーである。夜中の2時40分。この時、おれは眠気でもうろうとしていたと言い訳をしておく。

 兼ねてから用意しておいた大きめの洗面器を手に取り、それでチンパンジーの頭を強めに叩いた。叩いてから洗面器を見つめて少し考え、もう一発強めに叩いた。我慢の分水嶺というか臨界点がここだったと今、振り返っている。この行為自体明らかに悪いことだが、おれが限界だったのだから仕方がない。多分ここでの2発がなかったらもっと大ごとになっている。


 その後、父の車椅子をロックし、一度立たせズボンとパンツを引きずり下ろす。ポリ手袋を装着してから陰茎を洗面器の上へ。だばだばだばとオレンジ色の尿が溜まっていく。やっと放出が収まったと思った時にトイレからノックの音が。母の「うんこが終わりました。ケツを吹きなさい」という合図である。いや、修羅場なんだから少し待ってろ。


 それにしても洗面器の万能ぶりには目を見張るものがある。もともとは父が急に吐いた時の吐瀉物を受け止めるものだったのだが、顔を洗うのにも頭を叩くのにも使えるし、まさか尿にまで対応してくれるとは。もう一つあればうんこまでできるかもしれない。


 しかしそうなると介護というより真夜中のアングラ大道芸になってしまうので、もしかしたらドキュメント72あたりが取材に来てもおかしくない。視聴者が小学生ならばゲロうんこしょんべんという鉄板ネタでさぞかし笑いが取れるだろう。

 一応言っておくがその洗面器は父専用である。それで顔を洗うとか洗濯物漬けておくといったことはしない。


 洗面器、何にでも使える。敬意を表して千面鬼という御名前を差し上げたい。

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