母は無言で涙を流した
介護タクシーを利用し、本日母退院。実に一月以上の長期入院だから想像はしていたが、入院費がなっかなかごっつい金額になっていた。
26万円。にじゅうろくまんえんといったらあなた一泊あたり約9千円ですよ。まあそんなものはどうでもいい。カネはまた増やせばいいのだ。
退院直前、先生が挨拶に来てくれた。
「その場しのぎの治療しかできずに申し訳ないです」
こちらは全くそんなことは思っていない。先生から看護師に至るまで、全ての人が母の快方に向け全力を尽くしてくれたことは体感している。
「脳の腫れも落ち着いてきているようです。もしかしたら、やっと放射線治療の効果が出てきたのかもしれません」
その言葉が聞きたかった。腫れさえ引けばの一心でこの一月以上臨んでいたのだ。腫れさえ引けばもう一度放射線治療を受けることができる。今後もてんかん発作の不安は残るが、それは致し方のないところだろう。
「もし次男さんが『もう介護無理』と思った時は、お母さんの再入院も選択肢として入れておいてください。それは逃げではなく、当たり前のことだと思ってください」
この言葉は、おれと同じような、もしくはおれよりも大変な状況で頑張っている人に届いて欲しいと思う。入所ができないような重たい病気の場合、入院という選択肢もあるのだ。
「まあ、緊急入院されるより、その方が僕らも安心できますので」
先生は笑いながら会話を終え、そのまま回診へ向かった。
会計を終え、介護タクシーで病院を出た。県道は空いており、思ったよりも早く家に到着した。
一月ぶりに帰宅した母の第一声に耳を澄ませていたが、無言だった。ただ泣いていた。今回の入院は出口が全く見えないものだったので、その不安がいかほどだったか、少しだけ伺い知ることができた。
しばらく涙を流している母に、言わなければならないことを伝えた。
「おかえりなさい」
「ありがとう、本当に」
震える声で母は応えた。顔色はすこぶるよい。一昨日の夕方に退院日を伝えてからというものの、体調はどんどん上向いているようだ。病は気からというが、これは本質の一面を捉えたいい言葉だと思う。
「まずアイスを食べますか」
おれの言葉に母は笑顔でうなずき、美味しい、嬉しいと言いながら期間限定ハーゲンダッツのキャラメルホリックをあっという間に食べ終えた。食事中も、ぼーっとしている時も笑顔である。トイレの介助の時だけは申し訳なさそうな顔をするが、この先どうしてもついてまわる問題なのでわざわざ気にするほどではない。
一番ひどい時はウンコ漏らした状態の母を床から引きずり上げたこともあるのだ。それに比べればなんてことはない。
母を家に戻したという選択に後悔は生じないと思う。自分の時間が無くなろうが睡眠時間が削られようが、結局はおれが自分で選択したことだからだ。
ホスピスやリハビリ病院に転院させていたら母の笑顔は二度と見られなかっただろう。入院してもらっている間はこちらは楽だが、後々になって死ぬまで忘れない後悔を引きずるに違いない。
もちろん本当に追い詰められたら先生のお勧め通り入院してもらう。ただし高いので短期である。
今はただ、母が笑って過ごせることを心の底から喜びたい。
これで終わればきれいにまとまっていいのだが、介護タクシーが高過ぎる点には少しだけ異を唱えたい。タクシーで片道千円の距離を5430円。もちろん車椅子ごと乗り込めるという大きなメリットはあるが、介助が必要な人間誰もがそんなにカネ持ってるわけがない。それでも安全を優先すれば介護タクシーを使うしかないのだが、何というか足元見られすぎというか。
通院するたびに往復で1万円越える金額を払うのは、言葉を慎重に選ぶと、かなりむかつく。ならばいっそのこと介護用車両を買っちまうかという物騒な考えが鎌首をもたげており、さっきからチラチラとトヨタやマツダのホームページを眺めている。
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