呼び方の問題なんですが

「桑原の家の者ですが、お母さんいますか」


 慌ただしく活動するナースセンターの受付でおれの放った言葉が、さざ波のようにおだやかに広がっていき、なんともいえないクスクス笑いを看護師たちにもたらした。もたらしてしまったのである。


 いつもは「母は出てこられそうですか」などと聞く。当たり前だ。お母さんとか言うと「誰のお母さんだ」と返答されても仕方がない。ずっと根詰めて考えているので、ふとした拍子に素が出てしまう。まさかそれが不特定多数の目と耳を楽しませるとは思いもしなかった。


 恥ずかしながら、おれは母のことを「お母さん」と呼んでいる。恥ずかしい、確かに恥ずかしい。大の大人ならば「おふくろ」と呼ぶべきなのだろうが、これはもっと恥ずかしい。なぜかは分からないが、スゴイ無理シテマスネ感丸出しというか。

 例えば、兄弟が共に「おふくろ」呼びしている家があるとする。仮になので鈴木家でも佐藤家でも田中家でもなんでもいいが、とりあえず岡三おかさん家としておこう。多分、多分ではあるがこの岡三家、子供の頃からおふくろと呼んでいたわけではないだろう。


 なぜならばちっちゃな子供が「おふくろ〜」と泣き叫ぶところを見たことがないからだ。もし目の前で見知らぬ子供がそう泣いていたら、心配するよりもまず先に笑う。手を叩いて笑う。目の前まで接近し指差して笑う。

「ママ〜」とか「おか〜さ〜ん」はよくありますよね。泣き叫ぶような心むきだしの状況で助けを求める場合、普段使っていない言葉は出てこない。ということは子供の頃はおふくろ呼びではなく、ママもしくはお母さんと呼んでいることになる。


 もしかしたらおふくろ〜と泣き叫ぶ子供もいるのかもしれない。もしかしたら家の近所の保育園ではみんなそうやって泣くのかもしれない。またもしかして、おれが承認欲求の化け物だとしたらその保育園に忍び込んでスマートフォンを構え「『おふくろ〜』と泣きわめく子供に涙が止まらない」といった下世話な動画をアップするかもしれない。

 仮定に仮定を重ねているので訳が分からなくなってきたが、要するに今まで「おふくろ」呼びする子供を見たことがないのだ。


 では、家庭内でおふくろ呼びする岡三兄弟、いつからおふくろと呼ぶようになったのだろうか。

 これは、非常にデリケートな問題である。例えば。

 兄がある日いきなり夕食時に、さりげなく「おふくろ」と呼び出したとする。おれは大人なんだぞ、のアピールなのかどうかは分からない。何人家族かはご想像にお任せするが、恐らく皆が箸を止めて兄を凝視するだろう。そこで何事もなく母君が応答してくれれば良い。だが「え?」とか返された日には、間違いなく兄の心はポッキポキの複雑骨折である。


 兄一人が犠牲になるのならばいい。だがここで弟が登場する。弟は前もって根回しをするタイプであり、前日夜、兄に相談をもちかけていたのだ。それは恐らくこんなような内容である。


「兄ちゃんあのさ、『お母さん』とか『お父さん』とか呼ぶの、ちょっとかっこ悪くない?」

「まあ、そうかな」

「じゃあ明日から兄ちゃんのことを兄貴かアンちゃん、親のことをおやじ、おふくろって呼ぶよ」

「おう、そうしよう」


 そういった取り決めに乗っ取り、というか踊らされた挙げ句、兄は玉砕した。もしここで弟が「お母さん」呼びに戻ったら兄はアンちゃんならぬワンちゃん、ただの犬死にである。決意を固めた弟は食事中に立ち上がり、家族全員の目を見ながら宣言した。


「き、今日から、おれたち兄弟は、お父さんとお母さんのことを、お、おやじ、おふくろって呼ぶから!」


 そんな熱い取り決めがあっておふくろ呼びが固定したのだから赤面ものである。想像するだけでいたたまれなくなってくる。

 この話は親戚が集まるたびに蒸し返されるだろうし、特に弟は夜中に思い出して布団から飛び上がることも一度や二度では済まないかもしれない。


 別に呼び名が変わったから役割が変わるわけでもなんでもなく、ただ「ちょっとかっこ悪いから」という理由で強引に呼称を変えたものだから、最初に言ったスゴイ無理シテマスネ感が浮かび上がってしまうのだ。一応念の為に保険をかけて言っておくが、これらはあくまでおれの感想である。


 そういった岡三家の状況を見ると、どうしても「おふくろ」とは呼べない。というか呼び方を変える理由と勇気がない。お母さ……母の場合は。


 だが父の呼び名は変えた。毎日呆れ果てているうちに心の中で一線を引くようになったからだ。

 今では「おい」とか「桑原さん」とか「一級さん」と呼んでいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る