自分の家に戻るのに遠慮する必要はない
昨日の14時、病院へ行った。母を個室へ移してもらったので、おれのサインが必要だったのだ。書類を提出し、いつものように呼び出してもらって少しだけ話をする。
話といってももうそれほど話題はない。テレビカードはあるかとか、歯は磨けているかとかその程度である。5分ほどで母を病室へ戻してもらった。
帰りの車の中で電話が鳴った。さっきまでいた病院からだ。ハンズフリーでつながってはいるが運転に影響が出るので、コンビニの駐車場に車を停めて電話をかけ直す。
「あの、病院に戻ってもらうことは可能ですか」
「なんでですか」
書類の不備か。
「先生からのお話しがあるということなのですが先生はオペ中で何時に終わるかわかりませんなので何時になるかわかりませんがしばらく待っていてほしいのですが」
「何時に行けばいいですか」
全く要領を得ない依頼に質問で返す。この病院の受付、たまにハズレを引くとこんなことがある。以前もこの人のおかげで40分待たされた。T病院への紹介状をこの人が止めていたのだ。あまりにも遅いので催促へ行くと「え、今日必要なんですか!?」と慌てて看護師に怒られていたので間違いない。先生が急いでくれた意味なし。
それはさておき、16時からおれと主治医の先生は母の個室で今後の話をすることになった。今までも散々今後の話はしているが、主治医の話なので聞かなくてはならないだろう。
寝転がっている母の体調を気にしながら、先生が改めて現状を説明する。
「今週、CTとMRIを撮影し、ガンの転移がないか、脳の腫れがどうなっているかを確認します。脳の腫れが引いていれば放射線治療を受けることができるはずです」
まさしくおさらいである。新しい情報は一つもないのだが、もう物事を覚えておくのに疲れ切っているおれには必要な行いであった。
具体的にどういう腫れの状態なのかも説明してくれたが、状況は良い方向には向かっていない。
「で、今後どうするかです」
先生は話を続ける。
「この病院に長くいることはできないんです。緊急に特化している病院ですので。その為リハビリ病院に移動することになるのですが……」
母の息が荒くなっている。疲れたのか改めてショックを受けているのか。恐らくその両方だろう。
「桑原さんは今後、どうしたいですか? お家に戻りたいですか?」
「戻りたいです」
泣きながら母は即答した。けど、と言葉をなんとかして絞り出す。
「けど、親二人の介護なんて、子供にさせられない。それが申し訳なくて……」
「いや、なんで自分の家に戻るのに遠慮する必要があるのよ」
少しだけ意気込みつつおれは母の言葉を遮った。最後まで面倒を看る覚悟はしているのだ。今までも何度か「もう無理」という場面はあったが、入院やデイサービスを利用してなんとか乗り切ってきた。眠れなかろうが仕事をするのが難しかろうが、なんとかするしかないのだ。
「だからお母さん、何も心配せずに戻ってきていいんだよ」
「うん、戻るなら今だと私も思います」
先生は言う。これからもっと麻痺が強くなる可能性がある。そうしたらそれこそ家での介護は難しくなる。少しは動く今だからこそ家に帰るのは選択肢として重要なものである、と。
「もしまた体調不良になったら私の外来を受けてください。すぐ入院してもらいますので」
先生はおれに「ゆっくりしていってください」と残して仕事へ戻った。改めて母に聞く。
「食事は今フォーク?」
「うん、フォークとスプーン。お箸は使えないね」
「トイレはおむつ?」
「2日に一回交換してもらってる」
そうか、とおれは頷いた。
「何も心配しなくていい。食べたいもののことだけ考えておいてくれ。また発作が起きたら入院してもらうしかないけど」
胸を張ってそう伝えると、やはり母はまた泣き出した。
前から「こいつの脳みそ要領8メガ程度か」と思われてもおかしくないくらい、この日記の中で繰り返し使っている言葉がある。
「どんなに小さくても一つくらい希望はあったほうが良い」
希望が小さければ小さいほどそれが潰えても再び灯るまでの時間は短い。だから小さい希望は絶対に持っていたい。
母の場合は「家に帰ってアイスと寿司を食べたい」。カネでなんとかなるのだから楽なものだ。その希望を叶えるために頑張ってもらうし、おれも頑張ることになる。
だけど勝手に「戻ってこい」って決めちゃったけど、兄に話したら怒られるかもしれないなあ。まあいいや。後悔しないように頑張ろう。
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