こわれつちまつたダンベルに…
兄のお盆休みが終わった。母は入院、父はおつとめ中なので、日中、家の中にはおれしかいなくなる。
本来ならば意気揚々、ヒャッホウと一声上げてどこかへ出かけるのであるが、とてもでないがそんな気にはならない。いつ母が入院している病院から電話が来るか分からないし、どのみち午後には病院へ行くのだ。
時間はあるが、やれることは少ない。
これはもう精神が病んでいることと怠惰の証明に他ならないのだが、掃除機をかければ騒音で電話の音が聴こえなかったらどうしようとうじうじ悩み、料理をしようものなら着信あったら電話に触れねえなと包丁を仕舞い、仕事の発注が来た日にはそれをさっそうと終わらせ返す刀でいやらしいサイトの閲覧に励む。
自分を守るため控えめに言うが、社会と先祖とお天道様に顔を向けられる状態か、お前。
できるのはせいぜい筋トレくらいなものか。これならすぐに電話に出ることができる。電話口で息が上がっている可能性が高いが、その時は「おっナニかやってたんだな」と察し、何も言わないのがお互いの為だ。
下丸子で一人暮らしを満喫している時、20キロのダンベルを2つ買った。ぐるぐる回して重りを止めるタイプの中で、最も安いものだ。安いだけあり、ぐるぐる回して止める道具(以下呪いの留め具)がしょっちゅう裏切る。
例えばベンチに仰向けになってダンベルプレスを行う時。一応説明しておくがベンチというのは室内に置くもので、平日の昼間から衆人行き交う公園のベンチでフンフン言いながらむさ苦しい汗を流すわけではない。通報されてしまう。もう一つ補足するとダンベルプレスというのはベンチプレスのダンベル版である。
ダンベルを持ち上げる時は、垂直に上げなければならない。なぜならば呪いの留め具がその性能をいかんなく発揮し、するりと滑り落ちるからだ。
留め具が滑り落ちるなんてことがあってはならない。なんのためにぐるぐる回しているのか。最初は大いに焦ったが、おれは賢いので、ニッコリ笑って留め具を瞬間接着剤で止めた。
だが呪いの留め具はおれよりもぜんぜん賢かった。バーを噛んだ薄いゴム板のみ残して留め具の本体がするりと滑り落ちやがったのだ。
通常の留め具はゴム板でバーを挟み込み、そのゴム板を強く抑えしっかりと固定している。ところが呪いの留め具は「ゴムで固定しているならヨシ!」とでも言わんばかりにスポンスポン抜け落ちるのだ。昭和のマンガで言う、おじいちゃんの入れ歯状態である。
薄いゴム板のみで20キロを固定できるわけがない。よってダンベルを滑り落とさないよう、機械のように垂直に上げ続ける。なぜやめないかと言うと、異常な緊張が付加されたことで更なる負荷に期待しているからであるが、それはもちろん不可である。ただただ危ないだけだ。
問題は終了時。どのようにダンベルの重りがすっぽ抜けないようにするかというと、一旦腹の上に、なるべく平らに置く。そして腿の上部やや外側にじりじりと20キロ2つを移動させ、腿でバーの片方を固定しながら腹筋で起き上がり、ゆっくりと床に置く。
一連の行動全てから攻撃性の強いバカスメルが漂ってくるが、特に膝に移す時のアクションはバカの骨頂ともいうべき特筆もののバカムーブ。ここからバカの匂いがバカバカ臭う。なぜ腿の上部やや外側にじりじりと移すかというと、己の安全の為である。これがやや内側に行くと、重みで自然と中心に寄る。中心には何があるか。御大事様がある。
そんな危ないもの使わなければいいのだが、新しくダンベルを買うのはもったいない。固定型だと20キロ2つで下手すれば2万円くらい行ってしまう。更に通販で買うと配送してくれる人に迷惑がかかる。
なのでいまだに呪いの留め具を使っているのだ。まいどまいど「こいつそのうちぶっ壊してやる」と筋トレのたびに殺意を抱いていたが、最近になって心情に変化が生じた。3から4度目のプッシュアップで呪いの留め具が床に落ちても「お、元気だな」と褒めてあげる優しさが芽生えたのだ。狂ったとも言える。
規定回数をこなし、床に転がっている呪いの留め具を手に取る。今、家で自発的に動くものはおれとこの留め具のみ。手に取り、しばらく考える。やっぱり捨てて新しいの買おうか……。
じめっと蒸し暑い朝9時、家の中で拾った呪いの留め具を手に処分方法を考えていると、月夜の晩に拾ったボタンを捨てるかどうか考えている詩人の姿がふと浮かんだ。
そのボタンは指先と心に染みたらしいが、呪いの装具はおれの恐怖心と猜疑心に染みる。どうしてそれが捨てずにいられようか?
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