ようこそユートピアへ!の巻

父を助手席に乗せ、家からわずか400メートルの老人ホームへと車を走らせる。車椅子を押して行こうかとも思ったが、荷物が多いのと暑いのでめんどくさかったのだ。今日はうれしい父親の入所開始日なのである。


到着後、まずお世話になる3階へ通された。この施設、1階はデイサービスで、2階はショートステイで使うのでいずれにも行ったことはあるが、3階の入所階へは初めての侵入となる。


エレベータから降りると大広間があり、壁際には車椅子というよりストレッチャーにのっかったご老人たちが並んでいる。そして首だけを動かし一斉にこちらを見た。中途半端な笑みを浮かべながら、顔を見ずに小さな声で挨拶を返す。


まず持ち込みの薬品のチェックを行う。2種類のインスリンやら数種類の塗り薬、当然飲み薬もここで手渡す。内容などを説明している間、隣りのストレッチャーおばあちゃんが首を横に向け、ずっとおれのことを見ていた。なるべく視界に入れないようにはしているが、こちらを凝視していることは分かる。


ずっと首が同じ角度なので疲れるのではないかと心配になり、一歩だけ下がった。ストレッチャーおばあちゃんの首もそれに連れて下がる。心のどこかでチャリン、という音がした。多分誰かからのお小遣いだと思う。


薬のチェックが終わり、寝起きする個室へ移動。視線がなくなり、少しだけ気が楽になる。まず衣類の数や持ち込み品の確認。ここで父が急に大声を上げた。


「お前、カレンダー持ってきただろうな!」


何も言わずベッドサイドにカレンダーを置く。前もって言われていたものではないが、どうせいるだろうと思って持ってきたのだ。その後も父の攻撃は続く。


「うちわ!」

「お前はそれで背中を掻くから禁止」

「はさみは入れただろうな!」

「それでもお前は背中とか腹を掻くから禁止」

「つまようじ!」

「持ってくるわけないだろ」


ことごとく失敗に終わった。家族に対して自分が要求する時だけ声を張り上げる性格が、この一月で少しでも封印されれば良しとしよう。顔を見ずに部屋を出て、1階での打ち合わせに向かった。


都合3つの部署と打ち合わせをしなければならない。書類やハンコがまだまだあるのだ。

1つ目の部署が終わり、次の担当者が来るまでの間に、両親がお世話になっているケアマネージャーが挨拶にきてくれた。


「どうでした? 3階の雰囲気は」


普通なら明るいですねとか天井が高くて広く感じますねとか返すのだろうが、解放感と割と大きめの罪悪感、暑さ、怒り、寝不足、疲れなど様々な要因が重なった結果、おれは思ったままを口に出していた。


「やっぱり高いところにある分、ヘブンとかかみ的なもんが近くに感じるんすかね」

「そうですか」

「ちょっとバイオハザードっぽかったっす」


苦笑いが返ってくる。


「誰も一緒にやっていないラジオ体操の映像とかもディストピアっつーかユートピアっぽさっつーか、雰囲気が出てたっすね」


やっぱりかなりバカなんだなおれ、と自覚した瞬間である。しかもヘラヘラ笑いながら言ってたからケアマネージャーとしては正気を疑ったかもしれない。正気にいるかどうかは自分でも分からないが、自爆するタイプのバカなんだろうなとも自覚した。疲れている時は黙っていることにしよう。


書類のサインを終え家に戻り、コーヒーを淹れて飲んだ。今日から約一月の間、自由になったのだ。誰かを犠牲にしての自由なので後ろめたさはあるが、その分母の病院に顔を出すことにしよう。面会はできないが、そうしないと居心地が悪いのである。

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