土砂降り行進記

 久しぶりに晴れたので洗濯物を外に干した。やはり晴れは良い。少しだけ気分が明るくなる。

 空を見ながら背中を伸ばしていたら、あっという間に濃い墨色の雲が墨汁のように広がり、土砂降りになった。急いで洗濯物を室内へと移動させる。なんという無駄な動き。


 母が入院している病院から「ボディソープとシャンプー類を持ってこいや」という電話があったので、取り急ぎ向かうことにした。


 車を数分も走らせると、前が見えないほどの豪雨になった。ワイパーを最速にしてもライトを点けても視界が悪い。当然スピードを落とす。前の車も後ろの車も同じように時速40キロほどで走る。


 この時、片側2車線の左車線を走っていた。右は右折車線。その右折車線を直進してくる軽自動車がいた。しかも結構なスピードでウインカーも点けずおれの前に割り込んできた。こちらはスピードを緩めているので慌てることはなかったが、軽自動車は大いに慌てているようだ。前の車を煽りだしたことからそれがわかる。


「虫よりバカだなあ」


 思わず独り言をもらした。軽の前を行く車にドライブレコーダーが付いていれば一発で免許取り消しである。

 軽はしびれを切らしたのか、またもウインカーを出さずに左折した。進入禁止の標識を無視して。おれが通り過ぎたのち、後ろからクラクションの連打が聞こえたが、今となっては何が起きたのかはわからない。だがハンドル握ると理性と知性が失われる人間は、車を運転しないほうがいい。


 話がそれた。

 病院に行ったところでコロナの影響で病室には行けないが、実はわずかにチャンスがあるのだ。ナウい言い方をするとワンチャンある。使い方合ってる?


 見舞い客は病室には行けない。だが患者が待合室に来ることは禁止されていない。なので車椅子に乗っている時であれば難なく待合室に来ることができるはずなのだ。

 ナースステーションで荷物を渡し、様子を探った。


「もしかして都合よく車椅子に乗って、待合室まで出てくることが可能だったりしませんか。あいやもちろん無理にとは言いませんしお忙しかったら私は素直に帰ります。ただここまで来たのでもしかしたらという願望、希望があるだけで切望してるわけではないのです」


 一気にまくしたてるおれをせせら笑い、看護師は母の病室へ向かってくれた。そして「車椅子乗っているので、そこらへんに突っ立ったまま待ってろ」と人情的な判断をしてくださったのだった。



 ブロッケンJrに車椅子を手押されるラーメンマンのように母がやってきた。ラーメンマンと違うところはやたらとメカメカしい点滴装置がついていることと、ドクターボンベがいないこと。


「どうか、具合は」


 おれの問いに母は答えた。


「まあまあだね。ケンジは家か?」

「いや、おれケンジですが」


 やはりまだはっきりしていないようだ。喋りもどこかおかしい。よく聞いてみると、固有名詞が色々と食い違っている。おれを兄と間違え、自分の姉を弟と勘違いし、友人の名前を聞いても記憶と一致しないようだ。父や先ほどの軽自動車のように暴走しない分まだましなのかもしれない。


 正直に言うと、なにか大事なものが抜けてしまったような感覚を受けた。生きるための気迫というかそういったものが。このままでは良くないだろうなと思い立ち、本来ならばもっと後に相談しながら決めることを一方的に通告した。


「すまんが、病院を退院したら、すぐに家には戻れないよ。まずはリハビリ病院に行ってもらう」


 想像通り、母は落ち込んだ。入院もあれだけ嫌がっていたのだから、当然といえば当然だ。


「リハビリして、良くなったら家に戻る形にしないと、生活が成り立たない。誰も入所しろなんて言ってない」

「そうなんだけどねえ」

「自分だって嫌でしょう。トイレくらい一人でできるように戻したいでしょう。だから頑張ろうよ。家にいる間とこの病院にいる間は頑張らなくていいから、次の病院で頑張ろうよ」


 説得を続けるうち、少しだけ目に力が宿った気がした。またすぐ忘れるかもしれないし、頑張る気がなくなるかもしれない。そうしたらその都度発破をかけるのだ。転院してから、こちらも母も忙しくなるだろう。


 看護師に頼み、車椅子を病室まで運んでもらう。エレベーターが来るまでの間、二人の話を聴いていた。

 看護師が母に問う。


「今来た方が次男さんですか?」


 母が答えた。


「えっと、長男です」


 次男ですが、という叫びを心の中だけで済ませた。

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