裏切り

今朝方、母がまた粗相をした。大きい方だ。それは仕方がないと思うのだけれど、こうも連日だと正直手に負えない。

歩けなくなり、右手での食事ができなくなり、トイレでの上げ下げ及び拭く作業ができず、記憶もおぼつかなくなってきている。ついでに、今朝は体温が37・5度。


病院の診察日だったので、まず電話で相談した。


「診察日なのですが、熱を出しておりまして。どうしましょう」


どうしましょうというのはもちろん、コロナ爆弾を抱えたテロリストになりたくないからだ。可能性は低いがゼロとは言えない。

外科へつないでもらった。


「先生に伺ったところ、来た方がいいとのことです。お母様の病状は発熱を伴う場合がありますが、何しろ今の御時世なので。お知らせ頂きありがとうございます」


礼を言われる筋合いはない。爆弾抱えてるがよろしいか、と聞いただけだ。


それはさておき、退院時よりも明らかに悪くなってきているので、家で面倒をみるのは不可能だと思う。ましてや家にはすでに要介護3がいる。


出発前、兄に声をかけた。


「もし可能なら、入院してもらうけど、よいか」

「もちろん、そうした方がいい」


という密談を交わし、二人がかりで母を玄関から道路に下ろす。車椅子を開き、なんとかして車に乗せ、また車椅子を畳んでやっと出発。大変だ、めちゃくちゃ大変だ。

病院に到着するまでの間、車内で母に話した。


「わりいけど、入院の話になったら、お願いしますね。家ではもう無理、正直しんどい。気持ちはわかるけど」

「お前たちがそう言うのなら仕方がない」


母は不承不承ながら飲み込んだようだった。


脳神経外科へ。


「どうですか、最近は」


という医者の軽いジャブに対し、おれは全力で応えた。


「退院時よりも遥かに悪くなっております。介助の体力も底が見えています」


医者はMRIの予約を早めてくれた。主治医は外科の先生なのでこの人はあくまでそのサポートなのだ。


「放射線治療によって腫瘍が壊死し、それが膨れているのか、もしくは腫瘍自体がまだ生きているのかはわからないのです。なので次回MRIまで強い薬を飲んで様子を見ましょう」

「強い薬というと」

「ステロイド剤ですね」

「先生、母、糖尿です」


医者は天を仰いだ。ステロイドと糖尿の相性の悪さについての詳細はここでは省くが、おれでも知っているくらい相性が悪い。今のアメリカと中国くらい。緒方カープと由伸ジャイアンツくらい。


「ま、まあとりあえず脳の腫れを抑えるのが第一なので」


医者はおれの目から逃げた。


「僕もそう思いますので、飲ませます。糖尿の病院にはこっちから電話しておいた方がいいですか」

「そうしてください」


続いて外科へ。

外科の先生は脳の画像を見ながら、実に軽い口調で言った。


「入院します? とりあえず。そこから様子を見てリハビリ病棟を探して、というやり方がいいと思います」


おれは我が意を得たりと大きく頷き、母の肩を軽く叩いた。


「先生もそうおっしゃっているし、入院してもらえる?」

「いやだ」


鍋の蓋で頭頂部を殴られたような衝撃が走った。だってあなたさっき、良いって言ったじゃない。

目が泳いでいるおれを哀れに思ったのか、先生が助け舟を出してくれた。


「入院はいやですか?」

「いやです」

「けど、次男さんも大変そうですよ? 何日か連続で大便をもらしてらっしゃるようですし……」


おそらく、おそらくだが先生がまず入院を勧めてくれたのは、歩けず食べれず排泄できずという状況を知ってのことだったのだろう。もしかしたら写真などを一瞥して入院が必要と判断したのかもしれないが。


「次男さんですよね。『発熱してますが行っていいか』と連絡してくれたのは」

「はい」

「お気遣いに感謝します。現状大変でしょうに」


くたくたの心に先生の言葉が染み渡った。なお、病院内でレントゲンを撮ったところ何事もなく、体温も下がっていた。

母の方に向きなおり、先生は優しく説得した。


「なので入院されてはいかがですか?」

「いやです」


ババア裏切りやがったな、という言葉をおれは飲み込むことに失敗し、


「いや、入院しておこう。こちらを助けると思って」


と情に訴えかけた。何も特養ホームに入所してくれと言っているわけではない。入院して良くなったらリハビリ病院に、そして帰宅すればいいのだ。


「いやだ」

「わかりました」


あいまいな笑みを浮かべながら診察室を退室し、帰路へ着いた。帰りは兄がいないので、一人で母を抱えあげてドアを開ける。

後ろから抱えながら愛用する回転椅子へ。当たり前の話だが回転椅子は回転するので、捕まる意味がない。なので毎日毎日「回転椅子の手すりにはつかまるな」と口を酸っぱくして言っている。

先程も同じ注意をした。しかし母は回転椅子の手すりをつかみ、全体重をかけた。当然椅子は回転し、あわや大惨事。救急車を呼ばずに済んだ代わりに、おれの腰が悲鳴を上げた。


そろそろ限界が見えそうだったので、地域包括センターへ電話をした。この話はまた後日。

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