予想はしてた
5日ぶりに母の顔を見た。転院の準備の為だ。こちらのことを認識しているかどうか不安だったが、その不安は的中することになる。
介護タクシーからストレッチャーに乗せられ移動する母が、こちらを見た。すかさず話しかける。
「おれが誰か、分かる?」
「分かるよ。律子だろ?」
母は、おれの祖母、つまり自分の母の名を上げた。
「ん? よく見て。おれは誰?」
「入院中の律子じゃない」
ストレッチャーから一歩離れ、母の顔を見下ろす。寝転がっているせいか、平べったい印象を受けた。人の顔ってこんなに平らだったけと、どうでもいいことをぼんやりと考えた。
しかし内心、右半身麻痺くらいで済むのではないかと期待していたのだが、そうはいかなかった。何しろ脳の病気なので、憤りを感じるのは徒労だ。
だけど、それでも。やはりというかなんというか、少しだけ涙がこぼれた。いい歳こいた汚らしいおっさんの涙ほど醜いものはないが、今回ばかりはしょうがない。心の中で悪く設定していた状態よりも更に悪かったのだから。
介護保険の申請はするとして、これからどうするかという大きな問題が待ち構えている。看護師にも聞かれたが、「退院できたら家で過ごすか施設に入れるか」の問題だ。
前日の夜、父に「入所を考えて欲しい」と相談したところ、
「なぜだ。お母さんを入所させるのか」
と斜め上のえげつない答えが返ってきた。
「笑わすな。アンタです。アンタが入るんです」
「なぜだ」
「おれが限界を迎えるであろうからです。その前の逃げ道です」
父は夢にも思ってなかったとでも言いたげな表情で反論をする。
なお、父は誰が相手でも自分のことを「お父さん」と呼ぶ。30年くらい前、家からどこかに電話をしている時「お父さんは〜」と言っていたので、兄に電話をしているのかと思いきや職場だったことがある。誰のお父さんだ。世界のお父さんか。
「お前がお父さんとお母さんの面倒みないでどうするんだ」
「だからそれが厳しいと言っているのですが」
「じゃあお前がもっと頑張ればいいだけじゃないか。甘えるな。お父さんが一番大変なんだぞ」
お父さんは絶対に入所なんてしないからな、と力強い宣言がなされたのだが、どうなんだろう、不安しかない。何に対する不安かというと、実の親の度を越した自己中心ぶりにである。もしかしたらおれの中にもそういう性質が眠っているのかと考えると不安で仕方がないのだ。
この半年、本当に大変なことしか起きなかった。ほとんど受け止めてきたつもりでいるけど、これから先は全く自信がない。よくニュースで見られる「介護疲れ」という状態に進むしかないのかもしれないが、まずは母が退院してから考えることにしよう。その前に介護保険の申請を準備しなくては。
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