昨晩の出来事

 また母が痙攣を起こしたので、救急車を呼んだ。

 日曜日の17時20分ごろのことだったと思う。

 それまでは体調に問題はなかった。なので、魚の煮付けの味をチェックしてもらったり、ストレッチするところを見守ったりしていた。


「体調が良いので風呂に入りたい」という言葉を信じ、服を脱がせた。思い返せば、この時すでに足元はおぼつかなかった気がする。


 数分後、風呂場から物音がし、兄が様子を見に行った。


「おい! ちょっとそっち持ってくれ!」


 兄はおれに、母の体の半分を抑えろと指示を出した。シャワーを浴びて立ったまま痙攣していたようだ。

 急いで体と頭を乾かし、会話を試みる。徐々に、言葉が詰まっていくのを感じることができた。

 どうにもならないので、救急車を呼んだ。父が「呼ぶな! みっともない!」など。どうでもいいことを叫んでいた。


 救急車が来るまでの間に、準備を整える。自分の財布、母のおくすり手帳や保険証、病院の診察券などを揃え、外出できる準備を整える。何回経験しても血圧が急に上がり、熱っぽくなるのを感じる。


 兄が母に話しかけ続ける。どうやら思ったことが言葉にならず、かつ右半身が麻痺している。悔しいのか悲しいのか、おそらくはその両方からだろう、母は泣いていた。


 いつもどおりに救急隊員を通し、病状を伝える。いつもの病院ではなく、遠くの病院へ運ばれることとなった。そこの評判が悪いことは知っているが、今はそんなことは二の次だ。


 救急センターに入り、いつものように一時間ほど待つ。CTが終わり、病状の説明を受けた。


「あまり良い状態ではありません。退院できたとしても、今後、言語障害と右半身の麻痺は残ると思います」


 すでに覚悟はしていたので、動揺はなかった。

 病棟に移されるストレッチャーの後を追う。いかにもアルバイトといった感じのやる気の無さを隠そうともしない。


 リハビリ室というところに入れられたが、当然おれは外で立ち尽くしている。アルバイトが荷物を返すとのことで、靴などを渡してきた。


「これ、靴ですよね」


 おれは首をひねりながら言った。


「そうです。お返しします」

「歩けるようになったら必要でしょう。渡します」

「いえ、僕は救急じゃないんで預かることはできないんです」

「預かってくれなんて言ってないです。母に渡してと言ってるんです。あんたの役職なんて聞いてねえよ。じゃあおれが入って渡していいんだな!?」


 怒っているわけではなく、普通に対応したつもりだ。ただ少し声は大きかったかもしれない。


「黙ってないで答えてくださいよ。その扉に、おれが入って渡してもいいんだな!?」


 胸の名札を見ながら普通にお話ししました。

 すると彼は不服そうに靴を受け取り、室内に入っていきました。めんどくさかったんでしょう。出てきた時に不服そうな顔をしていたので「おいこら」と笑いかけようと思ったが、実際に出てきた言葉は「大丈夫か、おまえらみたいなバイトに任せて」でした。


 基本的には、私は人より下に出ます。特に普通に応対してもらったりすると、それより下に行ったろうとすら思ってます。ですが初対面で高飛車な態度を取られたり、急に悪意をぶつけられると、硬めの対応をします。この時は母の病状も手伝い、激おこ状態でした。


 やがて女性看護師による入院の説明。連帯保証人、保証金10万円、部屋の希望など、カネの話から始めたので驚いた。なるほど、評判が悪いわけだ。

 おくすり手帳を見ながら彼女は言った。


「糖尿病の注射は何を」

「そこに書いてある通り、トレシーバです」

「単位は」

「それも書いてあります。0−0−6です」

「夜だけということですか?」


 バカらしくなったので黙っていた。医療従事者にこんなことを聞き返されたのは初めてだ。

 少しして納得したのか、彼女は言った。


「息子さんはお手伝いしないのですか」

「血糖値は測ってあげてますが。自分でできることはやってもらってます。それが」

「わかりました」


 いや、何がよ。何がわかったのよ。こっちはあんたがわかってないことだけはわかったよ。

 早いうちにカネ持ってこいみたいなことを言われ、20時過ぎに解放された。


 タクシーの中から兄に電話をし、正直に状態を話した。しばらく沈黙していたが、


「……お前の晩飯、温めておいてやるよ。おつかれだったな」


 と弱々しい言葉が返ってきた。


 家に着き、うがい手洗いを済ませ、もう一度話をした。これからどうするか。退院したら家で介護をしていくのか、どこかの病院に任せるのか。兄は色々考えていたが、立ったまま喋り続けるおれに座るよう促し、温め直した魚の煮付けを出してくれた。昼間、母が味のチェックをしてくれたものだ。

 少しだけ考え、箸をつける。いつもの、いつも作ってくれていた魚の煮付けだった。


「うまいな」

「そうだろ?」


 おれの小さな独り言に、兄は少し上ずった声で返答した。

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