神に才能を願った青年と非凡な努力を積み重ねた凡人
石島修治
(1)神志名と澤野竹彦の歪んだ関係
妙な息苦しさを感じていた。
私は土管の中のような、真っ暗で、酸素が薄くて、薄気味が悪い円筒形の中にいた。
正確には円筒形の中にいるという実感はなくて、視覚も聴覚も働かず、味覚も嗅覚も役に立たない現在では、ただただ触覚だけが頼りだった。
その触角を頼りに、四つん這いの姿勢で移動しているのだという事実だけが目の前にあった。
何故ここにいるのか、一体ここはどこなのか、強制的に収容されたのか、自主的に入り込んだのかはよくわからないが、出口のない暗闇を、文字通りの手探りで進んでいることは確かなようだ。
身体を自由に動かせない圧迫感や息もできない閉塞感は常に隣にあって、酸素を渇望して大きく口を開けても、肺にはほとんど届かなかった。
正直なところ、不安になる。
自由に身体を動かせて、自由に呼吸ができる。
そんな当たり前が奪われただけで、人は不安になるのだ。
もっと空気が吸いたい。もっとだ、もっとたくさん……。
ここにいたらダメだ。全然足りない。
出口は見えない。でも、ここから出ないといけない。
そう思って拳を強く握ると、覚醒した。意識が。
私の意識が覚醒した。
気が付くとベッドの上で眠っていて、布団の中に顔を埋めていた。
息苦しさの正体はこれかと思っていたら、布団から何かが飛び降りる音がした。
何事かと、重いまぶたを開けると、愛猫のコウが障子戸をカリカリ引っ掻いていて、私の顔を見付けるなり「にゃあ」と天使のように可愛らしい声と表情で鳴いた。
私は「コウちゃん!」と猫撫で声を出して、木造の階段を下りる。
愛猫のコウは軽い身のこなしで先に下りて行った。
古い木造の家屋はみしみしと音が鳴って、屋根裏ではネズミがチュウチュウ鳴いていた。
リビングに行くと、脱ぎっぱなしの洗濯物が散乱していた。
「くっそ、頭が痛ぇな!」
コウにキャットフードを与えてから、市販の頭痛薬を口元に放り込んだ。
そしてキッチンで水道水とともに嚥下してから、茶碗にご飯を盛る。
自炊と言っても米を炊くくらいしかできないから、朝食はほとんど納豆と玉子だ。
「うん、なかなかうまい!」
そう舌鼓を打ちながら、卓上のウイスキーボトルを見る。
飲みてえ。さっさと飲み干してえ。
昨日はヤケ酒だった。それは認める。
だけど今日は祝い酒だ。それなら飲む口実にはなるか?
そんなことを呟きながら、昨日の朝刊新聞に目を通す。
新刊図書の欄に、"澤野竹彦"の名前があった。
たいして面白くもなさそうなクソみたいなタイトルに、澤野竹彦の名前が添えられていて、もう背中がぞわぞわっとした。
それによる敗北感や焦燥感は確実にあって、でもそれを認めることはできなくて、
「なーに、ポコチンのポコチンがポコチンみてーな本を出版してるんだよ」
小学生のような独り言を呟いてから、ギャハハっとみじめに渇いた笑い声を上げてみる。
もう何が何だかわかんねえや。くっそ!
テレビのリモコンを手に取ったが、イライラしてそれを投げ飛ばした。
くそ、くそ、くそ!
何もわかってねえんだ。編集者も出版社も読者の連中も。
澤野竹彦と書いて、ポコチンとでもルビを振られるような作家を評価して、何で、何でこの令和の文豪を評価しないんだよ。
狂ってる。何もかもが狂ってる!
お前もあいつもその人も、みんなまとめてポコチンだー!!
私は自棄になって、ウイスキーの瓶に口をつける。
40度のアルコールは、私ののどをひりつかせた。
私の方が、私の方が、私はもっと評価されるべきなんだー!
気が狂って、頭から酒を浴びていると、例の澤野竹彦から電話がかかってきた。
「お久しぶりですね、神志名さん」
「おー、お疲れ。久しぶり。元気だったか、澤野竹彦。いやー、お前から電話をしてくるなんて、今日はなんて吉日なんだ」
「あはは、テンション高いですね……」
「ちょうどお前のことを考えていたところだよ」
「は、何すかそれ? 彼女かよ、気持ち悪い」
「そういう冷淡なところも好きだぜ!」
「まーたわけのわからないことを言って……」
いつもの他愛のない会話からスタートする。
嫉妬やら何やらの感情はすぐにどこかへと吹き飛んだ。
澤野竹彦はポコチンであり、どうしようもないクズだ。
そのダメっぷりが同情を誘うのか、彼の周りにはいつも多くの人がいた。
私もそのクズっぷりに魅了されてしまった中毒者の一人だ。
「実は、また新刊を出したんすよ」
「知ってる」
「え、知ってるんすか!?」
「当然だろう」
「さては神志名さんも僕のファンなのでは」
「そんなわけないだろ。バカか!」
「バカって何ですか、もうプンプン!」
「…………」
もしも目の前にポコチンがいたら、ウイスキーの瓶でぶん殴っているところだった。
いやー、危ない、危ない。命拾いしたな。
「ところで神志名さん、今日飲みに行きませんか?」
「行く行く。もちろん行くぞ。同行させてくれ」
私はポコチンのことを嫌っているが、それと同じくらいに魅力的にも感じているのだ。
彼は髪の毛からつま先までクズの成分でできているが、それでも人を引き寄せる何かがある。
「一も二もなく飛びつきましたね」
澤野竹彦は電話越しに苦笑を漏らした。
「さては神志名さんも僕のファンなのでは」
「そんなわけないだろ。殺すぞ!」
「殺すって何ですか、もうプンプン!」
私は腹が立って通話を切った。
神に才能を願った青年と非凡な努力を積み重ねた凡人 石島修治 @ishizimashuzi
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