第44話 捕まえてごらん?

「ねえ知ってた? スウェーデン語で水のことを『ヴァッテン』って言うんだって」


 サブスクで海外の音楽を流しながら、峯浦瑠月と千代真中は図書室の本を漁っていた。元々始まりの遅い夏休みの中、二人が属する上杉学院中学校の三年生、九十一名には読書感想文が課せられていた。


 課題図書は無いので、自由に好きな本を選べるが残念なことに、課題はB4用紙に縦四十行、横三十行の一枚一二〇〇字、それを五枚なので普通の中学生に比べるととても長い。

 そう言うわけで、二人は六〇〇〇字を埋められるほど心に残る本を中高附属図書館で探していたのだった。


「私さ、スウェーデン語の練習として琳音くんの好きな本を読んでみようと思うの。夏休みに終わるかわからないけど」


 真中はその琳音くんが好きな本の邦訳書を片手に、日本語訳を軽く読んでみる。彼女の家は農家をしている関係で、機械の音が本当にうるさい。そのおかげで、自然とよく通る声が出来上がっている。


「……なんだこの日本語。ひっでえや!」


「ちょっと真中、声が大きいよ」


「瑠月だって音楽を図書館で流してるくせに」


 すると瑠月は黙り込んで、学校の生徒が好むような流行りの曲ではなく、誰も知らない洋楽を流す。彼女はその音を小さくして、隣で日本語訳の酷さに唖然とする真中にだけ聞こえるように気をつけた。


「……あっ、これ。ラーレだ、琳音くんが昔好きだった。なんだっけ、この曲名は……Waterだ!」


「ひづる姉ちゃんに頼んで、スウェーデンの音楽サイトで曲を買ってもらったの」


「おいおい、何さらっと……」


 でも、この曲が琳音は好きなんでしょ? そう瑠月が真中の耳元にスマホを近づけると、彼女はそのまま頬を赤くしてうつむく。うねった前髪が下に垂れて、ベールのように真中の顔を隠した。


 "Laleh, could you catch me in, Laleh, Don't forget me..."


 中学生でもわかる英語の歌詞に瑠月が即興で日本語歌詞を付けて遊んでみせる。彼女はその前に、一度ペットボトルに入った水を飲んでテンポに乗る準備をする。一方、真中は地元に住む片想い相手のことを気にしているのか、ずっと頬を染めたままうつむいている。


「ラーレ、捕まえてごらん? ラーレ、忘れないでね」


「……なんだ。私が教えなくても英語はできるね」


 おかげで。瑠月が得意げにそう口にして、真中の顎を掴み、持ち上げるとそのトパーズ色の瞳をじっと見つめる。


「……なによ、恥ずかしい」


 そう小さく吐いて瑠月の視線を避けようと目線を迷子にする真中に、瑠月は桃色の瞳で追いかけて嘲笑する。


「生徒会長の目線から離れようとだなんて、あんたいい神経してるわね」


「なんかあんたの目を見てると琳音くんを思い出しちゃうんだ。彼の左目は赤いのに、あんたの両目は桃色で、違うように見えるでしょ? でも、見つめているものが同じように見えるんだよね」


「ふーん……。あのメンヘラ女装少年とねえ。……で、なんでいきなりラーレなんかを歌い出したの?」


 真中の小さな体を掴むと、瑠月は小さく笑って雑学と共にその意図を答えてみせた。


「だってラーレって、お父さんを溺死で亡くしてるから。この季節の藤峰はよく川で人が死ぬでしょ? もしかして、琳音も……」


「変な冗談はやめてよ!」


 真中が変な声調で高笑いする瑠月を怒鳴りつける。すると、周りで勉強していたり、本を探していたりした他の生徒たちが二人を見つめまわし、何が起きたのかを司書が尋ねてきた。


「ちょっと真中ちゃん、何があったの?」


 年老いた司書に、真中は激昂した様子で生徒会長のしたことを仰々しく叫んで見せた。いつもの女の子らしいおしとやかさはどこへやら。真中の度を越した暴言は瑠月を涙目にしてみせた。


「この白髪生徒会長様が、私の好きな人をバカにするんです! 『あんたの好きな人はこの夏、池に飛び込んで死ぬかも』って。あーあ、笑い方もいやらしいこのクソ雑魚生徒会長め。姉の七光りで生徒会長になったくせに……」


 すると、瑠月の頭のてっぺんから毛先まで真っ白の長い髪について、コソコソ話す生徒が現れ出した。


「白髪って変じゃない? 染めればいいのに……」


 その声を聞いた瑠月は三つ編みにしていた髪を解いて、頭を振って髪を強調した。彼女の髪は三つ編みにしたおかげでうねって、どこかアニメに出てきそうな姿をしていた。


「白髪で悪かったわね、遺伝なのよ。でもこの髪で傷ついた人間なんて、この学校にはいないでしょ? 祖母からの遺伝でこうなってんの」


「……そう……」


 真中は黙り込み、そのまま片手に取った本を持って貸し出しカウンターに向かった。


「ヴァッテン……。水かあ……」


 一関まで走る電車の中で、真中は図書館で借りた本を読み、プリペイドカードで購入したその本の原書を電子書籍として読み始める。


「『正しき者を招き入れよ』……か」


 その本の映画版で、吸血鬼の奴隷である男が、殺した人間の死体を川に放り投げるシーンがふと脳裏に浮かぶ。その脳内では、うっすらと明るい秋の寒々しい夜に、吸血鬼の血として全てを吸われた男の死体が、肉の塊となって雪と雪の間に挟まる川に沈められていく様が浮かんでいた。


「『場所』、『ブラッケベリ。彼は雪玉を、ドラッグのことを思っていたかもしれない……』かな?」


 電子書籍の目次を見ると、物語は一九八一年十月二十一日の水曜日に始まり、十一月十二日の木曜日で物語は終わっている。


 あらすじはいじめられっ子の少年が隣に引越してきた美少女と仲良くなる、と言えば王道なラブストーリーものだが、その美少女はオタク風に言えば『ショタジジイ吸血鬼』で、そのために犠牲になった人間は数知れず。だが、その吸血鬼にも悲しい過去があった。


 最後は映画を見て知っているため、なんとも言えないが、実は真中は英訳版で先に原作の続編を読んでしまっていた。誰かが置いていった、ペーパーバック版の英訳書を辞書片手に読み、三日かけて読んだが彼女は色々辛くなってしまった。


 スペインに逃げて、人間をやめて吸血鬼となった主人公。十二歳で選んだ幼い決意は、真夏のスペインの太陽に焦がされるのではないか。いつか好きな人と別れることになったら、一人ぼっちになったら片方はどう生きるのだろうか。二人は永遠が続かないことを知らないのか。


 押し付けがましい疑問や持論を吸血鬼二人に押し付けて、真中は地元の片想い相手に想いを馳せる。父を目の前で殺され、自身も左目をえぐられて赤色の義眼をはめることになった。彼は外に出ると基本その赤い義眼に眼帯をつけてごまかし、隻眼の吸血鬼となるのだ。


 彼には生まれつき血液内にある酵素がなく、それが原因で日光を浴びることができず、食べられるものも限られてくる。


 駅中の餅屋で買った団子くらいだろうか。琳音が食せるものは。わずかな有り金で買った団子を手に、真中はふと彼が恋しくなってテキストメッセージを送った。


 "Jag älskar dig, så mycket, mycket, mycket.”


「とっても愛してる」とスウェーデン語で送ってみせると、数分後、ピコンと通知が来て日本語で冷たい返事が来ていた。


『愛がうるさい。お前より好きな人がいるんだわ』


 知ってる。真中はそう返す。そして、彼の好きな団子を写真に写して送信する。すると、すぐにまた返信が来て琳音のテキストがこういった。


『団子を食べながら話そう』


 さっきまでの態度から一変、親しくなった彼にどこか愛しさを感じながら、田舎へ進んでいく電車の中で真中はクスリと笑う。


「かわいい……」


 そう口にすると、アナウンスが到着を告げた。


「まもなく、藤峰。藤峰。降りる方はお荷物のお忘れのないよう……」


 電車の出口に立って、減速する電車の中にある手すりに掴まる。真中はスウェーデン語の電子書籍を手に、自身の片想い相手と会えるのを楽しみにしていた。


 駅に着いて、定期券を駅員に見せて古いコンクリート製の駅舎に入ると、そこでは駅内文庫の本を読む少女がいた。彼女は真中の声を聞くと、そっちを振り向いた。


 ぱっつんと目の上で切りそろえられた前髪、その下にちょこんと付いた大きな猫目、桃のように柔らかそうで、リンゴのように赤い唇。死体のように白く透き通った肌を覆うのはフリルのついた白いワンピース、ガーターベルトで固定されたニーソックス。その日は珍しく、彼女は編み上げブーツを履いていた。


「まなかー。おかえり」


 固い笑顔で笑いかける琳音に、真中はその体を抱きしめてささやいた。


「ただいま……」


「なんだよ、気持ち悪りぃ」


 琳音は真中を一度突き放すと、彼女の持っていた餅屋の袋を手に取る。


「いつもの琳音くんで安心した」


 真中は琳音のした仕打ちにも関わらず、自分なりに微笑んで彼の肩を叩いた。


「スウェーデン語を教えて欲しいんだけど……」


「おう、いいぜ」


 播磨さんちでやろうか。そう彼女が口にすると、琳音はレインコートを羽織って彼女に相談を持ちかけた。


「なあ、真夏が夏休みに来るじゃん? 泊まる場所、播磨さんにお願いできねえかな?」


「んー、拓也さんも香澄さんもきっと許可してくれるよ。じゃなかったら我が家で……」


「げえっ、あの騒がしい千代家ちしろでかあ。まあ、スウェーデン語を知りたいならそれでもいいけどよお……」


 自分に親しみを持った上で嫌悪し、四年間会えなかった恋人と再会できることへの嬉しさを隠しきれなくて笑顔が綻ぶ琳音の腕に新しい傷ができていないことを、歩きながら確認する真中は彼が少しずつ前へ生きていることを知って嬉しくなった。


 さっきの瑠月が言ったように、彼は池に飛び込むことはしないし、この夏を楽しめるのだと。自分を誘拐して日本を彷徨った記憶から逃げられるのだと。


「あーあ、絶対池に飛び込まないでよ」


「なんの話だよ?」


「んー、さっき瑠月が言ってたんだよね。琳音くんが夏休みに池に飛び込んで死ぬって」


 するとそれを聞いた琳音は苦笑いをしながら真中の手を握る。彼女にとって、琳音の方から手を握ることは珍しかったので思わず頬を赤くして、下を見ながら播磨さん宅へと向かって行った。


「死なねえよ」


 ただ一言、その言葉が聞きたかった。真中は琳音の宣言に喜びを感じながら足を進めていく。片想い相手と、その恋人が目の前で再会するとき、時間を過ごす時、どんな気持ちに彼らはなるのだろう。

 何気なくそう思いながら、真夏近づく夕陽を背にふたりは道を行くのだった。

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