第43話 Acta non verba
昔から「できて当たり前」がまかり通っていた我が家では、何をしても褒められたり、お礼を言われたりすることが滅多になかった。
大津の湖水浴場付近に家を買った親父は、朝早くから電車に乗って大阪まで仕事に出かけ、早くて夜八時ごろに帰ってくる。一方のおかんは写真館でカメラマンのバイトをして、密かに専門学生の後輩と性的関係にあった。
幼かった頃のオレは「ありがとう」という言葉を親から聞いたことがなかった代わりに、何かできないと殴ってくる父に涙を流して繰り返す「ごめんなさい」という言葉をよく使っていた。
従順だったあの頃は、脚や腕のあちこちに傷を作りながら学校に通っていたが、誰かに気付いて欲しくて、明るい態度をとりながら冬も半袖短パンで登校したものだ。
だが真冬の寒い日もタンクトップ一枚で、白くて細い腕から見えるのは青痣や出来たばかりの擦り傷や切り傷を覆う包帯。それなのに痛いそぶりも見せないで笑って取り繕う同級生。
そんな奴に誰が近づくと思うか? おかげで学校で俺に近づく者は誰もおらず、赴任してきたばかりの担任も児童相談所に通報してきて、我が家の内情をたまに見に来るほどだ。
「なあ真夏。お前、これからは中学受験のために勉強しろ」
「……はい」
父がオレに中学受験を提案したのは、小学六年生の春のことだった。どうやら同じ駅で同じ会社に通う青崎という同僚から、彼の息子が受ける中学のことを聞かされたらしい。
そこは大津の自宅からは遠いが、関西の名門大学が運営している学校で、英語や数学に特に力を入れているのだという。そして、コースにもよるがその大学に行くことも可能だそうだ。
その話を聞いたのか、住宅ローンが残っている中、近所の塾に翌朝さっそく登録しにいき、オレの遅すぎる中学受験へ向けた勉強が始まった。
「できねえよ、こんなの」
周りの生徒たちが幼い頃から中学受験に向けて勉強している中、父の遅すぎる提案のせいでオレは彼らについていくのが大変だった。
小学校での成績が優秀でも偏差値四十。そんな世界に塾に行ったこともなかった被虐待児が放り込まれる姿を想像してほしい。
父がいないのをいいことに、母が性交渉する声を聞かされ、見させられ、場合によっては参加させられる中、オレは傷をあちこちに作って母の代わりに夕食を作り、食べ終えた後でやっと勉強するのだ。成績は……、結構いい方だったが。
そんなことは変わらなくて、受験勉強に追われながら眠気と戦いながら自習室で勉強していたある日。
「こんにちは」
肩を揺らされて起こされたオレはとっさに振り向く。すると、そこに立つのは塾でも成績優秀者として褒め称えられ、期待もよくされる青崎雅彦。オレの親父と同僚の人の息子だという。
「な、なんだよ」
「お前の話は父さんから聞いてるよ。加藤さんの息子さんだよな?」
「ああ、青崎さんの息子さんだよなあ? そうだけど、それが何か?」
すると青崎はニヤリといやらしい表情でオレに笑いかける。その笑いが、いつかネットで見た殺人鬼扮するピエロのようで気持ち悪い。
勉強を別の場所でしようと荷物を片付けていると、青崎がオレの傷だらけの腕を掴んで言った。
「お前さあ、受けてんだろ? 虐待ってやつを」
「それがなんだよ。オレの家では普通なんだよ」
「いいか? 逃げたい時は逃げるんだ。声を上げたい時は上げろ。Acta non Verba,だ」
「はあ……?」
開いた口が塞がらないままのオレに、青崎は続ける。
「ラテン語で『言葉よりも行動で』、を意味する言葉だ。いいか、いつかこの言葉が役立つ日が来る。覚えておくといいよ、ははは……」
そのまま笑いながら青崎は去っていった。
青崎のその日の言動が忘れられないまま到達した夏休み。塾では受験生たちが自習室で勉強に集中している。
当のオレは、前夜に父親と母親の荒々しい性交渉を見学させられながら、親父のペニスを舐めさせられた。拒絶すると殴られる。何も知らないままする性交渉は、感情がこもっていない、実につまらないものだった。
「……ねみい」
オレはいつものように授業中に寝て、先生から呼ばれていた。
「真夏くん、君は六年生から受験に挑むにしてはよく追いついているし、本当に勉強している。だが肝心の授業で寝るなよ。なあ? せっかく授業料を払ってくれてる親にだって申し訳ないと思わないのかい?」
「……昨日、両親といやらしいと呼ばれる行為をしました。きっとそれで眠いのかもしれません」
すると、教師が青い顔をしてオレを別室へ誘った。中では色んなことを聞かれる。
「それは本当か?」
「……ええ、まあ」
それなら警察を呼ばないと……。オレは教師の言葉に思わず焦って、その手を掴んで止める。教師は優しい顔をして、オレの掴んだ手を包んで笑った。
「まあ、冗談ならいいがな。でも事実なら警察を呼ぶ。いいな?」
「はあい」
その晩、塾から帰ると父が顔に青筋を作ってオレを待ち受けていた。
「真夏」
名前を呼ばれた途端、オレは家柱に体を投げ込まれ首元を掴まれる。いつもある暴力に違いはないのだが、その日は違っていた。
「青崎さんから聞いたぞ。お前、塾に行かないで遊んでばっかりいるんだってな! 月収六十万円を稼ぐ俺の身にもなれ、この失敗作!」
この言葉に、限界が来ていたオレもとうとうキレたのか、それとも青崎雅彦の言葉が役立ったのか、オレは親父の股間を蹴って、湖水浴場へ駆けて行った。
外ではメンツがいい親父のことだ。きっと追ってこない。そう思ってオレはあの湖水浴場へ駆けていく。約一キロと、小学生にしては遠い距離を走ったが疲れはなかった。
さて、その湖水浴場でオレは桜野琳音という少年と出会い、恋に落ちた。その夜、疲れていたはずのオレだったが琳音といるとその疲れさえ吹き飛んでしまうほどだった。
「君が羨ましい。やりたいことをやって、拒絶もできるのだから」
そう言った琳音の眼差しはどこか虚ろな瞳で、自身の境遇を嘆いているようで。今思うと、仕方ないことだったのだが当時はあまり彼のことを思ってやれなかったと思っている。
だが、「よくやった」と遠回しに褒めてもらえた気がして、オレは嬉しくて仕方なかった。その嬉しさや、琳音の美しさもあったのだろう。オレは彼と恋をして、今も病室で泣く彼のことを思いながら真中と話をしている。
Gカップになったばかりだという胸はブラジャーからこぼれるほど厚く、スライム乳というのだろうか、同じクラスの青崎だったら喜びそうなほどに大きくていい匂いを女子らしく醸し出している。
下着同士で話す高校生と中学生の会話は、大人からすればアダルトなもので恥ずべきだとされるものに違いない。だが、オレと真中は琳音を取り合うライバル。彼女の下ネタも平気で話すその態度に、オレも恋愛感情は抱けない。
「あんたってさ、もし琳音くんと暮らして何年か経ったら、子供はどうするつもり?」
子供、か……。まさかライバルからその言葉が出てくるとは思わず、オレは飲んでいたセボリーニャを吹き出す。
「まあ、確かに子育てがしたい時もあるだろうけどよお……」
そう何気なく言うと、彼女は自身の胸を強調して近づいてくる。じりじりと、四つん這いになって、安産型の尻も強調しながら這う彼女はトカゲのようにいやらしく、毒々しい花のようだった。
「あんたと琳音くんの子供を産んでやろうか? あっ、子種はあんたね」
外国人のような顔をした、トパーズ色の瞳がオレを誘い込もうとしてくる。それでもオレは押さえ込んで真中を止めた。
「まあ、まあ、まあ……。その話はオレたちが大人になってからにしよう」
「そうだね。童貞くん」
まあ、周りにはよく童貞と言っているが、厳密には卒業しているのだ。まあ、その相手がとんでもないだけで。
「お前も処女のくせに」
上から彼女を見下ろして答えると、真中はぷっと吹き出して英語でひたすら「ヤッ、イヤッ」と繰り返しながら笑い続けるのだった。
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