悪しき正義と秘匿薬
第40話 Heart List
「琳音くん」
私は彼の好きなリンゴを剥きながら、ブラジルの漫画を読む琳音くんに話しかけた。すると琳音くんは左目をつぶった顔を私の方に向けて、うなずきながら聞き返してくる。
「なんだ? またデートの話か?」
「ちがう! 琳音くんって、真夏と一緒にいる時は杖をついてリハビリしてるんでしょ? 一階にも遊園地みたいな遊び場があるんだから、私と一緒に行かない?」
すると琳音くんはスマホで時刻を確認し、それからまた私の顔を見て即断で答えた。
「ダメ」
真夏とは病院で既にデートしているのに、ズルくない? 私はそう思って、嫉妬のあまり琳音くんにその理由をまた聞いた。
「なんでダメなの?」
「真中、いま何時だ?」
「えっと……。十一時二十五分」
すると彼は、部屋の外で警備している警官を横目に見ながら、小さな声で私に何か話しかけてくる。その様子がどこか深刻そうで、私は思わず近づいて彼のささやきに耳を傾ける。
「KUNGARの職員が毎朝六時になると俺の病室にやってきて薬を打つんだ」
衝撃の事実を聞いて、私は思わずワッと声を出しそうになる。だがそれを必死で抑えて、早打つ心拍を落ち着かせて、そのまま琳音くんに質問を返した。
「でも、お医者さんとかでしょ? リンダさんも前に、施設にKUNGARの職員が混ざり込んでるって話してたし」
「ああ。確かにKUNGARの職員であることには間違いないけど……」
ここで琳音くんが口を閉じる。それから一旦呼吸をして、彼はさらに小さな声で私に話す。
「実はKUNGARがこっそり国に黙って作ってる薬なんだ。毎朝それを打たれると起き上がれなくて、脳味噌をミキサーでかき混ぜられるような感覚がしてよお……」
琳音くんが入院した夜、里親の片割れである真瓜さんが私と真夏に叫んだ言葉が忘れられない。
『国に未承認の薬を息子に打たせて、それで親と呼べるのか』
なるほど、そういうことだったのか。だが、残念ながらその薬の詳細が手に入らない。エムネに行けば噂程度にはささやかれているだろうが、エムネ廃人と化した沙羅の口からも薬の話を聞いたことはない。
「それで、琳音くんはなんでいきなりそんな話をしだしたの?」
普段から大声の私も、この時ばかりは極力声を出さないように、琳音くんの耳元で小さくささやく。
「察してくれよ、おい。まあ話すか……」
琳音くんは鍵付きの小さな金庫から自分の財布を取り出すと、そこから三井住友銀行のデビットカードとキャッシュカードを私に手渡す。
「お前だから信じてる。もし俺が病院から出ることができたら、その預金に貯金してた金でシェルターに逃げる。それまで預かってくれないか?」
そんな、いきなりそんなことを言われても私は困惑するばかりだ。それにシェルターに隠れるという手法は、柚木が起こした誘拐事件と同じではないか。また同じことを繰り返そうとしている彼に、私は一度は断ろうとした。だがその動きはすぐ琳音くんによって封じられてしまった。
「そのカードの名義を見てくれ」
カードには二枚とも『ハリマ カスミ』の名義になっている。まさか、この日を琳音くんは待っていたというのか……?
「どこのシェルターに隠れるつもり?」
「仙台だったら駅前があるが、そこはすぐバレちまう。駅前だしな。一関の寺に一度話をしたら同情してもらえて……。しばらくはそこの寺のシェルターに隠れるつもりだ」
「一関……。色々観光名所もあるし、旅行気分で楽しんでらっしゃい。まあ、しばらく琳音くんに会えなくなるのは残念だけど」
項垂れて落ち込む私に、琳音くんは肩を叩いて慰めてくれた。
「ほんの数ヶ月隠れるだけだ。心配すんな」
「うん。でも、その間にどうするの?」
「エムネって裏から入れるバックドアが付いてるんだ。そこからインガたちのやり取りを監視している。お前にはリンダさんにUSBを渡してもらえないか? そこには円医師のパソコンから盗み取った情報がエムネに流れるようにウイルスをしかけた」
「なんかすごい数ヶ月になりそうね」
「そこは拓也さんに頑張ってもらった。薬でフラフラになってた俺を見つけてくれたかららしい」
「そう。それにしても犯罪を犯しても平気なのか」
「俺には播磨さんくらいしか味方がいなかったからな」
すると、ノックする音が鳴って入り口が開かれる。そこにはフラフラになりつつも必死に立とうと必死の真夏がいた。
看護師たちに取り押さえられそうになっている中、彼は琳音に向かって手を伸ばす。琳音くんは必死に杖を使って立ち上がろうとしている。関節を火傷しているからか、皮膚を移植した跡は引っ張られて痛いだろうし、どうしても真っ直ぐに立つことが難しくなる。
それでも看護師たちについて行って、ベッドの上で真夏が横にされる様を見て涙を流していた。
「りんね……。お前も毎日こんな目に遭ってるのか……?」
今にも消えそうな声をした真夏の青い顔に、私はどこか恐怖を覚えて後ずさりした。だが、それでは真夏も琳音くんも心配だ。
私は真夏が点滴を受けている様を見て、何が起きたのか聞いてみる。
「美雨さんのお店に行ったんだよ。そしたら客の一人が俺を取り押さえて打ってきたんだ……。楽になれる薬だ、って……」
まあ、美雨さんのお店は料理が美味しいからな。早めの昼食に行ってきたのだろう。そう考えつつ、私は琳音くんが顔を歪ませて悲しそうな顔をしているのをじっと見ていた。
両目に涙を溜めて、それは今にも一筋の線になって溢れ、ベッドの上に伝い落ちそうだ。私はとりあえず真夏の青い顔が少しずつ赤くなっていくのを待ちつつ、彼に何が起きたのか改めて詳しく聞いてみた。
「ハートリストって薬らしい。ネットで調べても出ないから分からねえが、店の売ってきたやつ曰く『KUNGARにいた学者がインガたちに安く売るために精製した薬』だそうだ」
その売人は続けて言ったそうだ。産婦人科医として命を扱っていると。いつも駅前でインデル症候群の母親たちをサポートしている円医師が? 嘘でしょ? あまりの衝撃で思わず椅子から崩れ落ちそうになる。
「俺さ、誘拐事件でにいちゃんが逮捕された後に施設に戻ったんだけど、浮いた子になっちゃってさ。その、完全に『可哀想な子』って扱いだったんだ。先生も、同級生も。それで逃げたくて養子縁組してしまったけど……」
ああ、さっきまで私が驚きで椅子から崩れ落ちそうだったのに、今度は琳音くんが両手で涙を拭って床に倒れてしまった。そんな彼を抱き起こして介抱すると、琳音くんは左目をつぶって首元の包帯を外すよう私に言った。
包帯を外すとなるほど。そこには数字の羅列がケロイド状に現れ、タトゥーのように目立っていた。
「スカリフィケーションっていってさ、タトゥーの一種。幼い頃に入れられたんだ。痛かったぜ」
「強がらなくていいから。琳音くんは偉いよ。自分が犯されても先生の無実を証明しようとしているし、十二歳の時から薬を打たれ続けても自活を求め続けてさ。私だったらできないよ」
「うん……」
私に抱きついて泣く琳音くんは子供のように椅子に崩れて、泣き続けている。今度は声を上げて、自分の境遇を憂いている。そのまま私は彼を抱きしめて、真夏にもそれを見せつけた。
すると真夏はどこか悔しそうな顔をして、私を睨みつけてきたのだ。それに私もお返しで見下すように見下ろしてほくそ笑んだ。
「琳音くん。がんばって。いま頑張らないと琳音くんが壊れるよ。同じ病院で柚木先生も病と戦ってるんだから」
「にいちゃん……。あいたい……」
今まで柚木先生についてあまり言葉を発さなかった琳音くんが、本音を漏らした瞬間だった。私は彼を抱きしめて、ハンカチで涙を拭ってやる。
私はこのまま彼を慰めながら、ずっとそばで慰めることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます