第41話 真中のメモ帳
「なあ真中、琳音を病室に連れて行ってくれ」
ふやけたワカメのように全身が伸びきって、力を抜いた真夏が自身の腕で目元を遮る。何かうわ言を言うように、ずっと懺悔を繰り返す琳音くんを真夏から引き離すのはそう難しいことではなかった。
「琳音くん、落ち着いて」
「ごめんなさい、こんなことに真夏を巻き込んでしまって……。俺はやっぱり死ねばよかったんだ……」
琳音くんには死んでほしくない自分が私の中にいた。だから、私は混乱気味の琳音くんの背中をさすりながら、ゆっくりと彼と真夏の距離を離していく。
徐々に離れていく距離に何か思うところがあったのだろう。琳音くんは腕を精一杯伸ばして、ただひたすら真夏の名前を呼び続けていた。
涙を流し、離れれば離れるほどその名前を呼ぶ声が大きくなる。私は医者や看護師たちに気づかれないように、静かに琳音くんの手を掴んで病室から去ろうとした。
「真夏、真夏……」
「琳音くん、私の話を聞いて。真夏はハートリストを打ち込まれて、やっと体調が落ち着きを取り戻し始めたの。心配するのもいいけど、真夏を一人にするのも大事だよ」
すると彼は黙りこんで、そのまま目に涙を溜めたまま私に手を引きずられていく。それから「じゃあね」と小さな声がして、彼は病室のドアを閉めた。
「……そんなに真夏が心配なの?」
「ああ。だからずっとそばにいたかったのに……」
とうとう涙が目からこぼれ落ちて、琳音くんは自身の手でそれを拭う。幼い子供の世話をしているような気分になって、私は困惑しながらも彼を病室まで送って行った。
「なあ真中……」
今にも消え入りそうな声で琳音くんが私の顔を見た。その顔は涙の跡がすっかり赤く腫れあがって、赤みの強い肌に強みを増していた。
「なあに?」
「俺が自分を傷つけようとしたら、お前が止めてくれるよな?」
思いがけない質問に、なんと答えればいいのか分からない。だがとりあえず、私は自分の思うままに答えてみせた。
「もちろんよ」
「なあ、よろしくな」
「うん」
四階の病室まで送っていく間、それから私たちはお互い黙りこんで、会話を交わすことはなかった。だが赤く腫れた目元とは対照的にどこか暗い表情の琳音くんがまた何かするのではないかと、不安に駆られた。
「大丈夫ですか?」
病室を警備する警察官にも心配の声をかけられるが、琳音くんはこれを無視して病室に入っていく。ベッドにストンと静かに座った彼はどこか落ち着きを取り戻したかのように見えたが、どこか落ち込んでいるように見える。
「セボリーニャ、買ってこようか?」
完全に病み切ってしまった琳音くんに何か飲み物をと思って、私は彼の好きなセボリーニャを買ってこようかと聞いてみる。
すると琳音くんは首を横に振って、静かに重たい口調で答えた。
「いいや、俺が買いに行く」
まさか、一階の自動販売機に行くついでに真夏のところへ行くのではないか。私は邪推しつつも、杖をついた彼がリハビリする気になったのだと思うことにして、そのまま彼を待つことにした。
「そう。いってらっしゃい」
コツコツと不規則な音を立てて杖をつき、小さな歩みをベッドから進める琳音くんは私を無視してそのまま病室を抜け出した。
琳音くんが帰ってくるまですっかり暇になった私は、メモ帳に書き込んだ内容を見返していた。そのメモ帳には琳音くんの好きな食べ物から苦手なこと、交友関係に関することや何に対してアレルギーを持っているかまで書いてある。
六月の雨の日に出会ってから八月上旬の今日に至るまで、私は琳音くんのあらゆることを観察して家に帰ってからメモにしたためていたのだ。これもそう、琳音くんの恋人になるため。つまり、真夏から琳音くんを奪いとるため。
あらゆることを網羅したメモ帳を見て、私はニヤケながら彼の帰りを待っていた。だが肝心の琳音くんは何十分経っても病室に戻ってこない。
さすがに私も心配して、琳音くんのスマホに電話をかける。だが私はベッドの食事台を見ていなかった。バイブ音とともに揺れるスマホを見て、彼とは連絡が取れないのだと悟るのに時間はかからなかった。
思わず私はその衝動性のせいか、メモ帳をバッグに仕舞い込むとそのまま病室を出た。病室を出ると、出入口にいるはずの警察官が呑気に同僚と会話している。
焦った様子の私に声をかけて、そのうちの一人は笑顔で聞いてきた。
「帰るんですか?」
「いえ……。ちょっと琳音くんを探しに」
「ほお。まあ、きっと一階にいるんでしょう。きっと遊び場でくつろいでますよ」
あまりにも呑気すぎる警察官の態度に腹が立ちつつも、私は怒りを抑え込んでそのままエレベーターホールへと向かった。
その間、ずっと琳音くんに何かあったのではないかと不安になりながら、普段からいるはずのない神様に祈りを捧げる。琳音くんがどうか無事でありますように。
エレベーターが四階まで上がってくると、私はドアが開いてすぐに乗り込んで一階に繋がるボタンを押して扉を閉じた。こみ上げてくる不安に、私は心臓の高鳴る鼓動を抑えようと胸に手を当てる。
エレベーターの中は古いからか、そよ風が少し吹くだけ。冷や汗を全身でかいているのを感じながら、三階、二階と下へ降りていくエレベーターの遅さに怒りながら、焦りを感じながら一階に着くまで待った。
そして一階にたどり着いてすぐに、遊び場まで駆けていく。琳音くん、琳音くん。私はさっきの琳音くんのようにただひたすら彼の名前を心の中で呼んで走って行く。例の遊び場まで行くと、何やら人だかりができている。
絶対何か起きている。そう思って野次馬の中を小さな体でよけながら野次馬に囲まれた琳音くんを見つけた。
やはり予想通り、琳音くんに何か起きていた。そして、彼は遊び場の真ん中で体を痙攣させて意識を失っている。何が起きたのかと思って周りを見回すと、セボリーニャとは違うジュースが転がっていた。
「こいつはやべえぞ。医者を呼んでこい!」
誰かがそう叫ぶ声がして、思わず我に帰る。私は琳音くんの恋人になりたい存在として、彼を守らないといけない。今の恋人である真夏が病室で眠っているなら尚更だ。とにかく、倒れた彼をそのままの体勢にして医者や看護師たちが来るまで待つ。
それからすぐ医者が焦ったような顔をして、看護師たちを連れてやってきた。幸いにも芝生の上だったのが幸いしたのか、琳音くんは頭を直に打たずに済んだようだ。医者とそばでじっとその様子を眺めていた私の目線が合う。
「あなたは彼のご家族ですか?」
「はい、妹です。異父妹の」
思わず嘘をついていた。担架に乗せられて運ばれる琳音くんとともに、私はそのまま医者たちに連れて行かれる。治療室では一刻の余裕も感じられない様子の医者が私に尋ねてきた。
「彼にアレルギーはありませんか?」
「ああ、メモ帳にアレルギーは全部書いてあります……」
私が医者にメモ帳を渡すと、彼はそのページをコピーするように看護師にまわした。
「これコピーしておいて」
従順な看護師は私のメモ帳を受け取るとそのまま去って行った。さて、医者は琳音くんの痙攣について予想立てて私に説明した。
「妹さん……。お兄さんは、どうやら自傷行為を図ったと思われます。アレルギー反応を起こす成分の入ったジュースをわざわざ選び飲んでますからね。それに彼はセボリーニャしか飲めないというのは、以前入院した時にも分かっています」
カルテを見ながら、さっきの焦りとは全く違って理路整然と説明する医者に、私は正直困惑した。彼は精神科医ではないからだ。それでも自傷行為を図ったとわかるのは、きっと前にも入院したからなのだろう。
「どうして自傷行為を図ったとお分かりになるんですか? もしかして、あの薬を打ち込まれているからでしょうか」
「あの薬はですねえ……」
医者が口をつぐむ。それは無理もないだろう。だって国家未承認の薬を打ち込んでいるのだから。
「残念ながら妹さんにもお話できないんですよ」
顔中に汗の吹き出た医者の顔がやけに印象的で、どうして汗を拭かないのかと疑問に思うが、その途端、看護師が顔を現して私を呼ぶ。
「妹さん、お兄さんの調子が落ち着いてきましたよ」
笑顔の看護師が私に手を差し伸べてくる。その手を不安のあまり握ってしまう私に、彼女は優しい表情で励ましてくれた。
「お兄さんは大丈夫よ」
その後、治療室のベッドで寝息を立てて眠る琳音くんの静かな顔を見て、私はやっとほっと胸を撫で下ろす。
すると、その横で看護師がメモ帳を返してきた。
「このメモのおかげで薬選びに困らなかったわ。ありがとう」
真夏といい、琳音くんといい、どうして今日は薬関係で倒れる人が多いのだろう。私は琳音くんが真夏のせいで倒れたことを許せなかった。真夏を心の中で責めるあまり、心の中で殺した。
でも、本当は逆なんだろうな。琳音くんが原因で真夏がハートリストを打たれたから、こうして琳音くんも責任を感じて自傷へ走ったのだろう。
それにしても、眠りにつく琳音くんはとても穏やかな顔をしている。まるでやっと心の底から安静を取り戻したかのようだ。
「あなたのお兄さん、穏やかな顔ね」
「ええ、そうですね。やっと平穏が訪れたみたい」
心の底でつぶやいた独り言が思わず口から出た瞬間。それでも私はまあいいやと思いながら、琳音くんの顔を眺める。
「琳音くん……」
私がそう静かに呼びながら彼の手を握ると、琳音くんがその手を握り返す。一瞬何が起きたか私はわからず、静かに呼びかける。
「琳音くん、起きてるの?」
「……ああ」
琳音くんが瞳をゆっくり開けて、私の顔を眺めて静かに聞く。
「……俺、また倒れたの?」
「そうだよ。なんで飲めないジュースなんて飲んだのよ。バカ。私、不安だったんだからね……」
思わずうなだれる私に、琳音くんは起き上がって頭を撫でてくれる。
「ごめんな。まさか本当にお前が来てくれるなんて思わなかった」
「もうこんなことしないでね」
私は琳音くんを抱きしめる。細い体はどこか骨張って、出会った時よりも少し痩せたような気がした。案の定、彼は「痛い」と言いながら離れるよう言ってくる。それでも私は彼の存在が愛しくて、その身を離さなかった。
「なあ真中」
「なに?」
「真夏、今なにしてるかな?」
琳音くんのことで頭一杯だった私の中からは、すっかり真夏のことが抜けていた。だが琳音くんは彼のことが心配らしい。
「それはいま気にすることじゃないよ」
「……そうだよな」
プッと琳音くんが吹き出す声がする。それから彼は静かに笑い、私から離れてその寂しそうな笑顔を見せた。
「落ち着いたら見に行こうか」
「うん」
私のけしかけに、琳音くんは微笑んでうなずいた。点滴袋が徐々に少なくなっていく中、私たちは遮光シート越しに浴びる夕焼けに映る影に身を委ねたのだった。
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