第28話 幸せな時間をあなたへ
「琳音くん、こんなお店に未成年を連れて来ちゃだめだよ。でも、あなたが元気になってくれてよかったわ」
琳音くんの頭を撫でながら優しく笑う美雨さんは女神のようだ。なんというか、同じレッテである琳音くんは摂食障害を疑いそうなほどに細いのに、美雨さんは二の腕を鍛え、尻も私以上に大きくて叩きがいがある。その尻はツンと天を見上げるように肉がしっかりと盛り上がっていて、ハリがあるようだ。
胸も大きい。それもノースリーブから少し乳首が見えているほどに。谷間がノースリーブの胸部分の少し開いた部分から見え、汗が落ちていった。なるほど。人を懐柔させる馴れ馴れしさと大きな胸と尻。それは男たちも夢中になるわけだ。
私が勝手に納得していると、美雨さんは私を見てニヤケながら聞いてきた。そして近寄ってくる。彼女の胸が揺れているのに私は目をやられていた。じっと見つめていると、目の前で赤い目をした美雨さんが目の前にいた。
「ねえ、琳音くんのことが好きって本当なの?」
「えっ?」
突然聞かれた内容に、正直困惑しつつも私は彼女から視線を逸らす。それでも彼女は私の目線を追いかけてきて、どこかしつこささえ覚えてしまう。
「琳音くんから聞いたよ。真中ちゃんは琳音くんのことが好きで、真夏くんにまで会わせてくれたって。感謝してるんだって、琳音くん」
「えっ、そうなんですか?」
今まで上辺っつらの笑顔と感謝しかもらえなかった私だったから、今回はさすがに驚いた。いや、よく考えれば上辺だけの付き合いをする相手なら、恋人と過ごす部屋に入れないよな。今更ながら琳音くんのツンデレっぷりに可愛げを感じた。
「桜野みゆきだっけ。焦がれ嬢って曲。琳音くんはお父さんと柚木先生、そして真中ちゃんとしか歌ったことないんだって」
「ああ、そうか……。真夏はそこにいないのか」
するとその言葉に反応してか、真夏が琳音くんに焦がれ嬢について聞いてくる。どこか嫉妬するような表情で。
「おい琳音。真中と歌ったなら俺とも歌えよ。な〜あ!」
すると琳音くんは頬を染めて、どこか真夏を刺激するような上目遣いで答えを小さく言葉にする。
「だって……。この歌は恋人とは歌わないって決めたんだもん……」
すると真夏はしばらく固まって、琳音を睨み付ける。だがそれから数秒後にはその理由を問うていた。
「どうしてだよ?」
「ねえ真夏、焦がれ嬢がどんな歌か知ってる? 愛した男の夢に羽を焦された蝶が、色んな男の夢を応援して、尽くして捨てられる歌なんだよ。そんな歌を好きな人と歌いたくないよ……」
「……そうか」
琳音くんを静かに抱きしめて、慰めの言葉をかける真夏に私はデジャヴを感じる。私も琳音くんと出会って一ヶ月近くは泣き出す琳音くんを抱きしめて、慰めの言葉をかけていた。
私は真夏が来るまで、琳音くんの恋人を演じていたのだ。それも無意識のうちに。それが恋人が来たためにお役御免となってしまった。しかも真夏が来るように仕向けたのは私だった。私は最初から最後まで、都合のいい女だった。
それでも友達として琳音くんのそばにいられるのは幸せなのだ。私は琳音くんが抱きしめられて、頬を染めている姿を「かわいい」と思って眺めている。ニヤけた顔で、いやらしい顔で。そもそも、私は本当に琳音くんのことが好きだったのか。そんな疑問さえ湧いてきた。
好きな人が笑顔でいられるならそれでいい。そんな気持ちでいるから教師だった恋人にさえ振られてしまうのだ。本当に焦がれ嬢のような女だ、私は。
「……そういえば美雨さんに聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「んー、いいよ? なんでも言ってごらん」
「えっと、その……」
そこからは躊躇って声を出せないでいる琳音くん。私は何かいけないことを想像しながら、彼が言葉を紡ぐのを待っていた。今か今かと待つこと十数秒。琳音くんが小さな声で言葉にした。
「柚木先生が俺を誘拐していた頃、クリスマスイブでした。雪がしんしんと降るのを窓から眺めながら俺は寝ていました。先生もです。でもイブだから、ユールだから何かお祝いがしたかった。それで俺は言ったんです。『好きです』って。そしたら先生も『俺も好きだよ』って。これって恋って意味だったんでしょうか?」
「……あー、それは本人に聞かないと分からないんじゃない?」
「でも柚木先生は病院にいて、もう四年も会えないままなんです。だから、色んな男から求められてきた美雨さんなら知ってるかなって……」
すると、美雨さんはしばらく考え込んで黙る。私たちは固唾を飲んで答えを待ち望むが、彼女の答えは案外あっさりしたものだった。
「柚木先生は、琳音くんが性的な虐待を受けているのを知ってお父さんに怒った人でしょ? そんな人が性的な目で見るとは思えない」
そもそも私、柚木先生についてあまり知らないし。美雨さんはそう言い放つと、琳音くんの頭を撫でた。どこか憐むような目をした彼女の顔は優しい女神様のようだった。きっと客とも、行為の後は愚痴を黙って聞いてあげる存在だったのだろう。
「そうですか……」
「まあ、誘拐されても性的な虐待に遭わなくてよかったわね。私も似たような経験があったけど、結局あったからなあ……」
遠い目で琳音くんを眺める美雨さんには闇がさしていた。なるほど。レッテには必ず人間にはない闇が一つは存在するのか。私は学習する。これからレッテを見つけたら、優しく接してみようと。
「まあ、それよりもお腹空かない? 今日は私の奢りでいいから、何か食べていって」
「……じゃあ、いつものパンケーキお願いできますか? アイスも添えて」
「もちろんよ」
真中ちゃんたちも食べていって。そう言われるがまま、私たちはメニューを渡されて何がいいかを選ぶ。写真のない質素なメニューには、健常者も馴染めるようにだろう。レッテが飲めないコーラやクリームソーダなどもある。
私はとりあえず飲み物にセボリーニャを選び、あまり肉の臭いがしないというハンバーグセットを注文した。
「このセボリーニャってなんですか? お店で見たことはあるけど、よく売り切れてるから……」
「そうね。玉ねぎを炭酸ジュースにしたようなものよ。ポルトガル語で玉ねぎを意味するからセボリーニャっていうの。レッテにとってはコーラみたいなものなの」
「へえ……」
私は辛いのが苦手なので不安になりながらも、セボリーニャとハンバーグセット、いわばハンバーグ定食を指さす。
「セボリーニャとこれ、お願いします」
「いいわよ。真夏くんは?」
「うーん、とりあえずセボリーニャとケーキセット。琳音と一緒に食うから」
「わかった」
スマホに注文を打ち込むと、美雨さんはそのまま踵を返してVIPルームから去っていった。取り残された私たちはとりあえず話す話題がなくて、お互いに黙り込んでしまう。だがすぐに真夏がその沈黙を破った。
「なんで琳音は美雨さんと親しいんだ? こんなVIPルームに通されて、しかも奢りだなんてさ」
「それは……」
琳音くんが俯いて涙を流す。両手を揃えて、指をいじりながら一点を見つめるその様はまるで追い詰められた子猫のように哀れだ。
「体を売ってた時期があったんだ。夜、俺が公園のトイレから出ると美雨さんとトイレで鉢合わせになってさ。恋人と別れたばかりで泣きたい夜だったんだって。それで公園から夜景を見て、意気投合したのがきっかけ」
真夏、ごめん。また体を売った。そうぶっきら棒に言い放つ琳音くん。追い詰められてもうどうでもよくなったのだろう。かわいそうに。私は真夏が黙り込んで琳音くんを見る様子を見ることしかできなかった。
しばらく沈黙が続く。それから私が話を切り替えようと映画の話をしようとする。だがここでやっと真夏が口を開いた。
「どうして黙ってたんだよ……?」
悔しそうな表情をする真夏は手を握り締めながら、やっぱり悲しそうで、悔しそうにしている。いけない空気になってきた。ここは私が何か話さないと。
「この町は狭いの。峯浦市の中にある藤峰という小さな地区よ。そこで生活しているなら鉢合わせすることだって珍しくないわ」
「琳音は誘拐された時も体を売って、血を他人に吸わせさせてたんだよ! 俺も自分の血を与えていた。先生が琳音に血を与えていたら病気が移っちまったんだよ!」
衝撃の事実。琳音くんは病気を先生に移し、さらに体を売ることで血を、その中にある酵素を得ていたのだ。
真夏のような血を与える行為は、場合によっては危険だ。私はいくら琳音くんが好きでも血は与えることができない。
「ごめんなさい。でも、もう許してって言わないから。さようならしたいならしていいよ」
「…………」
あっ、ヤバい。琳音くん、真夏に本当にふられる。ふられた後がヤバいのだけど、真夏はどうするのだろう。私は固唾を飲んで見守っていた。
「……俺はお前が好きだ。だから体を売っていてもいい。好きだ」
そう言って琳音くんの前でひざまづく真夏。彼は琳音くんの左手を握ると、自身のポケットから安っぽい指輪を取り出した。
「……っ!」
声にならない声を出して、琳音くんは涙を目に溜める。その細い薬指に真夏は指輪を通して、彼を見やった。
「琳音、一生隣にいてくれ」
「……こんな俺でも? 体を売ってたのに……」
「それは過去のことだ。仕方ない。不問にするよ」
「……真夏!」
とうとう感情が決壊して、琳音くんは涙を流して右手でそれを拭った。化粧はしていないからいいが、美しい顔がぐちゃぐちゃだ。
「こんな俺でよかったら……。愛してます」
ああ。写真に撮っておけばよかった。この瞬間をカメラに収めていれば監督も喜んでいただろうに。私は悔しく思いつつも、成立した真夏と琳音くんのプロポーズを祝福した。
「おめでとう、ふたりとも! ……あれっ、涙が……」
「ありがとう、真中」
そう言いながら三人で抱きしめ合う。真夏の体は体格が良くて筋肉も良く鍛えられていたが、琳音くんは細くて、逆方向に少しでも力を入れれば折れてしまいそうだった。
まさか風俗嬢のレストランでこんな嬉しい日が待っていたなんて。私自身思いもしなかったから、琳音くんの喜びを自分のもののように喜びながら二人に「おめでとう」といつまでも言い合った。
「お前は寝とる側なのに、変なの」
真夏にそう言われても、私は祝福の言葉を吐くことをやめなかった。遮光カーテンで光が遮られ、微かに明るい間接照明が私たちを照らしている。いつまでも、この祝福をしていたいと、思うほど私は願っていた。ふたりの永遠を。
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