第18話 幕間

 今日は琳音くんが私の家に泊まっている。本人曰く、「映像を撮って疲れた。いつも気を張り詰めてしまう家には戻りたくない」とのことで急遽お泊まりが決まったのだ。


 それはそうとも、いつも脱いだ服は散らかっぱなし、掃除も月に一度やるかやらないかというほど汚い私の部屋に好きな人が……! いや、片想いだけども! 私は琳音くんを連れて家に向かう途中、母に電話をかけた。


「母さん、ちょっと相談なんだけど」

『わっ、なによいきなり』


 私は琳音くんに聞こえないように、少し離れて通話を続ける。空はもうすっかり真っ暗で、月が黄金色の光を琳音くんの瞳に映している。いつもは虚ろな光が瞳にはあるのに。月の夜は彼にとっての黄金期ならぬ黄金夜だ。


「…………」


 月を眺める琳音くんの姿に見惚れていると、電話口から母の怒声が聞こえてきた。


『真中? ……こら真中! 返事しないとお母さん怒るよ!』

「もう怒ってるじゃん……。ごめん、それで頼みがあって」

『頼み? まさかまたあの……』


 なんと察しのいい母親だろう。当然ながら私は嘘をつくことさえできず、そのまま降参した。


「……はい。そのまさかです。琳音くん、帰る場所がないの。今日だけでいいから泊めてあげて」

『琳音くんって円先生の息子さんでしょ? 家出か何か?』

「……お願い!」

『最近あんたは琳音くん琳音くんうるさくてラインばっかしてるし、帰ったばかりでもあの子のことを助けに行ったこともあるよね……』


 これは母親のお小言タイムか? 正直言ってそういうのはうざったいからやめてほしい。私はお小言さえ受け流せない、真っ正直な人間なのに。


「無理ならいいよ」

『いや、今夜は泊めてあげるから。仏間だけど布団は準備しておくし、円先生には連絡しておくから』


 ……お母さま! 


「あ、ありがとうございます! 琳音くんは私がしっかり守って帰るから安心して!」

『はい。連れてきなさいよ。じゃあね』

「じゃ」


 コロン。電話を切って、ブランコに揺られる琳音くんに近づく。


「琳音くん……」


 ブランコに揺られた彼は、その背中まである長い黒髪を風になびかせ歌っている。


「あなたが愛した夢に……焦がれ焦がされ私は地に堕ちる……」


 その姿があまりにも絵になりそうなほどに綺麗だったから、絵の中に入りたくない私は思わず遠くからその姿を眺めている。風はゆっくり吹いている。そよ風というのか。その名前を忘れるほどに、琳音くんのブランコは絵になる。


「玉座に……」


 ヒュッとここで口笛のような音を立てた風が私と彼の間に吹いて空へ消えていく。『玉座に』から私は全然彼の歌を聞くことができなかった。

 するとそこで歌い終わったようで、琳音くんが私をじっと見つめている。その瞳にはいつも通りの虚ろな光が戻っていて、私は彼のものにならないのだと暗示しているようだった。


「おう、なにやってんだよ真中。早く戻ってこいよ」

「う、うん……」


 私は微妙な気分になりながらも、ブランコから立ち上がった琳音くんに聞いてみた。


「琳音くん、何を歌ってたの?」


 すると彼はどこかムシを突かれたような顔で、瞳を丸くして一瞬その身を固くした。この歌によほどの思いがあるらしい。


「……歌だよ。昭和の」

「まあ、琳音くんはサンダーバードが好きなんだもんね。ていうかサンダーバードが好きな理由って何?」


 琳音くんはどこか寂しそうな顔をして、一瞬うつむいて私に答える。風になびく髪を一本に結えながら、自分の昔話を始めた。


「サンダーバードが好きな理由かあ……。むかし山の上にある孤児院に住んでた時、柚木先生が夜になると海へ遊びに連れてってくれたんだ。山を降りればすぐだったから。そこで言われたんだ。あの頃はよく外で指さされてその度に辛くてさ。もう死のうかって本気で思うくらい。その時に先生が『お前は雷鳥。昔から言い伝えのある、神の鳥だ』って」


 雷鳥を英語にすると"Thunderbird"、つまりサンダーバードな訳か。まあ、サンダーバードの原題は複数形だけど。


「柚木先生は富山生まれで、飛騨山脈にはよく雷鳥が集まってるんだとよ。レッテも山に集落を作った時代があるから、雷鳥だって山の下にある街の人たちは言い合ったんだとよ」

「へえ、けっこう複雑な過程のある好きな理由だね……」

「だよなあ」


 お互いそこで笑い合って山を降りる。私は琳音くんを連れて町の外れにある自宅へ向かう。ここは峯浦市と籠山の境目付近にあり、嶺藤山脈が見下ろす田舎だ。

 どれくらいの田舎かといえば、電車が一時間に一本あるかないか。それでも地元にはレッテがたくさん住み、それなりに混んでいる。


「よく思えばこんな田舎によくレッテが集まるよねえ」

「そうだよな。車使わねえとこんなところ住めっこねえっつの」


 赤いレインコートに身を包んだ琳音くんが蚕のように白い顔で私を見つめる。その顔は一瞬死んでいるようにも見えた。いくら彼の頬が赤くても、その赤みがよく分からないほどに辺りは真っ暗だったのだ。

 そんな地元の悪口を笑いながら言い合っていると、いつの間にか自宅に着いていた。どれくらいの鬱憤を普段からお互いに、溜め込んでいるのだろう。


 家の引き戸を開いて私が「ただいま」と言うと、妹がやってきて私の連れに目をやっていた。彼女も姉の私と同じように、面食いなのだ。


「秀子、ただいま」

「秀子じゃないでしょ! シュウって呼んで」

「ごめんシュウ」

「それにしてもこの人は……? こんなにカッコいい娘、こんな田舎にいるわけないでしょう。同級生なの?! 友達?!」


 幼さ残る秀子に、琳音はじっと目をやる。数秒眺めてから、その瞳を細めて琳音くんは秀子の頭を撫でて答えた。


「ううん、違うよ。駅前にある産婦人科。分かるでしょ? そこの息子だよ」

「……男なんだ」


 秀子が笑い顔のままうつむいて、そのまま表情筋がピクリとも動かない。汗はかきっぱなしで、かなり暑いのに。ちょっとくらい反応してもいいはずだ。

 まだか、まだかと私が待っていると秀子がパァッと明るい声で一気に淀んだ空気を弾み返した。


「ええっ! リアル男の娘だあ! えーこんなに可愛いのお?!」

「ちょっとシュウ! 声大きいよ」

「うるせー! 姉ちゃんもデカいじゃん……」


 すると母が奥にある台所から顔を出して琳音くんと目を合わせた。彼女は意外にも淡々とした態度で「ご飯できてるよ」とだけ言って、そのまま消えた。

「行こっか!」

「う、うん……」


 なんだか居心地が悪いと言った様子で琳音くんはサンダルを脱ぎ、丁寧に揃えてそのまま私に手を引かれて台所へ向かう。


 美味しそうな生姜焼きの匂いに、私は久しぶりの肉を楽しみにする。一方で琳音くんはその臭いに必死に耐えているようだ。


「琳音くん、食べられないの?」


 すると琳音くんは私に耳打ちする。私の頭にかかる細くて柔らかい髪、体からする同年代の男子とは思えないほど柔らかくも細い指、桃花の香りがする体……。こんなに可愛くて素敵な男子がいるなんて、最近まで気づかなかったのに。今はそれを知ることができた事実と琳音くんの体の柔らかさ、温かさが自分の体でも感じられて幸せだ。


「俺さ、昔からあっさりしたものしか食べられなくて……。どうしよう」

「うーん……」


 私が考え込んでいると、母がそこに割り入ってくるように言ってきた。


「食べられないならいいのよ。サラダはたっぷりあるから」

「す、すみません……」

「いいのよ。まさか琳音くんが来るなんて、おばさん予想もしてなかったから」


 笑顔でも伝わる母の怒り。それを先に読み取ったのは、どうやら私ではなく琳音くんのようで。気まずい顔をして空いた食卓の椅子に座るその姿に、普通の人間である私も思わず気まずい顔をせざるを得なかった。


「いただきます」


 そう言って琳音くんはシーザーサラダを箸で食べる。どこかのお嬢様のように、おしとやかに野菜を口に運ぶその姿に私は思わずタジタジとなった。

 瑞々しいレタスにかけられたシーザーサラダドレッシング。その白い液体をかけられた野菜を琳音くんと仮定すると……。思わずニヤけて、自身の性癖を押さえ込めなかった。


「何ニヤケてんだよ、キモっ……」

「ああ……。ごめん……」


 父親の罵倒にショックを受けながらも、琳音くんは美味しそうにシーザーサラダを食べてくれている。必死に肉の焼ける臭いを堪えながらの食事は、レッテにとってはかなり食べづらいだろう。母親はレッテにそこまでの憎しみがあるのか?

 私は母を少し憎む気持ちがありながらも、琳音くんが食事を終えるのをじっと観察していた。


「ごちそうさまです。美味しかったです、シーザーサラダ。ありがとうございます」


 彼がお辞儀して母にお礼を言うと、やっと彼女の怒りも緩くなってきた。母は無言で琳音くんの皿を片付けると、そのままこう彼に言い放った。


「早くお風呂に入って。一番風呂だからお湯は綺麗よ!」


 一番風呂? お湯は綺麗? 新鮮な言葉に聞こえたのだろう。私は琳音くんを浴場に連れて行くと、そのまま一緒に、と一緒に服を脱ぎ始める。


「ちょっ、お前なんで脱ぐんだよ」

「琳音くんはFカップの私の胸を触っても、頬を赤らめることはなかった。だから恥ずかしくないと思って」

「出ろよ出ろ」


 だがそう琳音くんに諭された瞬間。


「おーい、琳音くん。お湯加減はどうだい?」

 祖母が話しかけてきて、外に出られなくなってしまった! 仕方なく私は琳音くんに一緒に風呂へ入る許可をもらう。


「琳音くん……」


 一生に一度のお願いをするような瞳で彼をじっと見つめると、琳音くんも諦めたようで。とうとう私に許可を出さざるを得なくなった。


「仕方ねーな」

「琳音くん……! ありがとう……!」


 私はお礼を言って琳音くんと一緒に風呂へ入った。浴場には出るためのドアとその下にシャンプーセットと石鹸しか置かれていない。小さな桶が風呂の隣に置かれていて、彼はやっと悟ったようだ。


「一番風呂ってそう言うことだったのかよ」

「今日は私が体を洗うね」

「わかったよ……」


 琳音くんを風呂に置いてあった椅子に座らせて、私はお湯を準備する。湯船は熱く、水を入れながら桶に入れたお湯の温度を調節する。


「琳音くん、いくよー」

「ああ、わかった」


 そうは言うものの。琳音くんの背中、本当に白い! 天使の背中のように、いや例えが悪いな。分かりやすく言うなら、新雪のようだ。スラリとした背中には背骨が一本、真ん中を通り抜けている。

 本当に痩せているなあ。そう思って琳音くんの背中にお湯をかけると、彼は声を上げた。


「ああ……っ、いい……。続けて……」

「わ、わかった……」


 あまりの気持ちよさで思わず喘いだ琳音くんの姿に私はたじろぐが、お湯をかけた時の背中のしなり具合が本当にいい。彼の体が震えながらお湯の熱さに喘いで背中をしならせるその姿に、私はきたものがあった。


「これ、気持ちいいの?」

「うん……。ああ……、最高……!」


 次に私は琳音くんの体を垢すりタオルで触れることにした。タオルで背中を擦った瞬間、琳音くんの喘ぎ声が風呂中に響いた。


「ああっ、ダメ……」

「やめる?」

「いや、つづけてくれ……」


 完全に風呂に落ちたな。私は心で悪魔のように微笑みながら、タオルで体を擦る。その度に琳音くんは喘ぎ声をあげるから、私もだんだんやりづらくなってきたけれど。


「あなたがあいしたゆめにぃ〜♪」


 とうとう歌い出しちゃったよ。この男の娘は。ところで、この歌はなんだろう?


「なんの歌?」

「だからさっき言ったじゃん。昭和の歌だって」

「えー、私も昭和の歌が好きでよく聴くけど、聴いたことないなあ」


 マジかあ……。落ち込む琳音くんに、私は慰めの声をかけてみる。


「で、でもひょっとしたらレッテの世界だけで流行った歌かもよ?」

「そっか……、だから父さんも……」


 ハッとした顔をした様子で後ろを向く琳音くんは、私の方を向いた。私的には、全く生えていない下の毛の方が気になるんだけど……。


「ねえ。その歌の続き、教えて?」

「いいぞ。焦がれ焦がされ〜、私は地へ落ちる〜! それでも残った足で、前を向くう……」


 歌を歌う途中で涙を流し始めた琳音くん。一体どれだけ泣けばいいのやら。ただ、今回はかなり深刻な事情があったらしい。


「……父さんとの思い出だから……」

「いいの。気にしないで」


 そう言いながらも、琳音くんは天国の父へ思い出の歌を歌いながら私のあんまを受けていた。その様子に思わず私もうっすら涙をこぼしながらも、堪えることしかできなかった。


 それから風呂を上がって仏間で歌についてネットで調べながらサブスクで曲を流した。


「あなたが愛した夢に〜焦がれ焦がされ^あたしは地へ堕ちた〜^それでも残った脚で立って前を向くわ^今度はそこにいたあなたの夢を見せてあげましょう〜」


 レコードの針の音が時々聞こえながらも、桜野みゆきが一九六二年に歌った『焦がれ嬢』をふたりで横になりながら話をしていた。


「柚木先生ってさっき話しただろ? その思い出もあるからよお……。忘れられねえんだよなあ」

 風呂上りの琳音くんはやはり桃花の香りを体から漂わせ、私に絡みついてくる。恋人とは認めていないはずなのに、どうしてだろう?


「琳音くんのお父さん、柚木先生。そして私ね! 琳音くんの思い出に入ったの。これは真夏も知らなかったでしょ!」

「さあ、どうだろうな?」


 琳音くんが私に顔を近づけながら、笑いだす。それに私もつられてぷっと吹き出した。その瞬間、お互い目を合わせて笑い袋のようにゲタゲタ大声を出して笑う。


 母親がその様子を見にくるまで、私たちはふたりだけの時間を楽しんだのだった。



「あなたがあいしたゆめにぃ〜♪」


 琳音の小さな人差し指が、砂浜で横になっている私の頬を小さく掻く。きづいた? そう言って私の顔を見てニヤリと笑う顔は、どこにもない愛しさの塊だ。


「焦がれ焦がされ私は地へ堕ちる。それでも残った脚で立って、前をむく」


 琳音の手首を掴みながら私は海の向こうを眺める。黒い闇の中で月光の下、藍色に輝く海は世界に続いている。


「何でそんなに古い歌を知ってんだよ、お前は……」

「父がよく歌ってたからです!」


 昭和くらいに流行った歌に琳音と私が歌ったものがあった。久しぶりに暖色系統のワンピースを着ている琳音は、その細い指を遊ばせて私に蝶の形をした両手を見せた。


「おれだって、何に焦がされても生きていますよ」


 首の根元に残った痛々しいケロイドの跡が、琳音の幼い首筋には残っている。私は彼の健気さに思わずその身を抱きしめた。


「ちょっ、やめてよにいちゃん」


 ゲラゲラ笑う琳音の首筋を眺めながら、海の音を聞く。さざなみが優しく夜を誘うこの時間、私は愛した誰かの夢に焦された蝶の歌を笑いながら歌う琳音の未来に安寧があることを願った。


「……向いた先にいたあなた、今度はあなたの夢を見せてあげるう〜♪」

「何度焦がれても平気よ。私の未来は私が決めるのだから……」

「そう、私は蘇る! ……何度でも何度でも♪」

「行く当てがなくても、いつか玉座につくのが私なのだから……。ってすごい歌だな」

「ですね」


 私たちは抱き合って笑う。琳音の未来に私は身を焦がしてもいい。何度でも蘇って、いつか彼に夢を見せる蝶になろう。

 私は静かな決心をすると、そのまま琳音と一緒に瞳を瞑って夜の海岸で眠るのだった。

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