13 反省してもへこみはしないわ
嫁いでそろそろ一月だというのに、相変わらずの状況だ。デートにすら誘ってもらえない。だから少し大袈裟に拗ねている不利をして、王都に買い物に行きたいと言うとあっさりと許可が下りたどころか王都まで同行してくれるらしい。王都の屋敷で三日ほど過ごすことが決まった。
「丁度王都に用事があって、アンジェリーナをどうしようか考えていたところだったんだ」
今日は穏やかな【旦那様】が柔らかな笑みで言う。きっとまたお薬のせいね。
「王都のお屋敷がご近所だったなんて知らなかったわ」
王都にあるジェリー侯爵家の別邸はハニー伯爵家の屋敷の歩いて(あたしの場合は飛んでだけど)行けるくらいご近所だった。
「爵位を継いだときに新しい屋敷を買ってね。そっちに越したんだ」
ふふふと笑う【旦那様】はとても上機嫌に見える。
「わざわざお屋敷を買ったの? 前のお屋敷は古くなっていたのかしら?」
「そんなことはないけど、競りには少しでも速く行きたいからね」
ああ。そうだ。オークション会場に近いのだ。王都のハニー伯爵家の屋敷は美術品専門のオークション会場にとても近い。そしてあたしの絵もよくそこでお世話になっている。
「旦那様は美術品を集めるのがお好きなの?」
「ああ。そうだね。君の作品は一つ残らず手に入れたいよ」
お世辞かしら。けれども機嫌が良さそうなのでなにも言わないでおく。
事前にクリスには手紙を出しているから、きっと彼女も今頃王都にいるはずだ。行きつけの画材店で待ち合わせる予定。
「それにしても、お小遣い、本当に渡さなくて大丈夫かい? 欲しいものがあったらなんでもアーノルドに言って構わないからね?」
「大丈夫よ。前に結構いい値段で絵が売れたから絵の具もたくさん買えるわ」
とにかくあたしにお金を掛けたい【旦那様】には悪いけれど、そういう甘やかし方はされたくない。お金だけ払って可愛がってますって言われたら悲しすぎるもの。
「旦那様、あたしは旦那様に可愛がって欲しいだけでたくさんお金を掛けて欲しいわけじゃないわ。ただ、お薬もお酒も抜きのときに、ちゃんと目を見て名前を呼んで欲しいし、抱きしめて欲しい。もう少し欲張ってもいいなら撫でて欲しい」
あまり欲張りすぎたら嫌われてしまうかしら? でも、本当はもっと欲張りたい。お膝に乗せてかわいいアンジーって言って欲しいし、ちゅーもして欲しい。寝るときもぎゅーってして欲しいし、あの美味しいメロンシャーベットを食べさせてもらいたい。うん。それよ。
「チャドだけ旦那様にシャーベットを食べさせてもらってるなんてずるいわ。あたしも旦那様にあーんして欲しい」
思わず勢いよくそう口にすると、【旦那様】は目を丸くして笑い出す。
「……アンジェリーナ、君はもっと欲張るべきだよ。チャドと張り合ってどうするんだい? シャーベットならいつでも用意するけれど……ふふっ、本当にかわいいな」
とても楽しそうに笑われたって困るわ。
けれども【旦那様】はとても上機嫌だ。相当強いお薬なのかしら?
「アンジェリーナ、おいで」
優しい声で、自分の膝をぽんぽんと叩きながら言う彼に驚く。けれども、悲しいことに体は素直に従ってしまう。
お膝に誘われて断るなんてあたしには出来ない。
大人しく膝に座ればぎゅっと抱きしめられる。
「いい子だね」
耳に掛かる吐息さえ甘く感じられてしまう。
それを誤魔化すように吐息の匂いを確認した。
「お酒の匂いはしないわ。やっぱりお薬をたくさん飲んだの? あたしのせいでご病気が悪化してしまったの?」
【旦那様】は『繊細』なお方だ。みんなそう言うもの。だからきっと問題児のあたしに手を焼いているわ。
「アンジェリーナ、それは違うよ。私は、体が弱いわけではない。君は誤解している。薬が必要なのは、気分の波がとても激しいからで、君はなにも悪くないよ。君と出会う前はもっと酷かったんだ。むしろ、君のおかげで少し回復しているところだよ」
優しく背を叩かれる。いけない。これは眠ってしまう。
「君を見ているだけで、とても勇気が湧いてくるんだ。君はいつだって前向きだし……人と違うことを楽しんでいる」
優しい声はあたしを励まそうとしてくれているみたいだ。けれども、彼の無自覚なとんとん攻撃はあたしの返事を待たずに深い眠りに導いてしまった。
「背を叩かれたら眠くなる体質のことを忘れてしまっていたよ。すまない。道中の景色を楽しみたかっただろう? 帰りはちゃんと、寄り道だって考えるから」
夜、王都のお屋敷で申し訳なさそうな【旦那様】に戸惑う。
眠ってしまったのはあたしの勝手だ。
「旦那様の凄テクにはいつも勝てないわ」
「……すまない。寝かしつけるつもりはなかったんだ」
ではどういうつもりで背を叩いたんだと訊ねたかったが、言うだけ無駄だ。背中に厚いパットを入れてもカフェインを大量摂取してもあの凄テクの前では一瞬で眠ってしまうのだから。
「別に、ずっと旦那様に抱きしめられて眠れたから、あたしは構わないけど……夜眠れなかったらちゃんと寝かしつけてね? 旦那様の凄テクなら一瞬よ」
寝過ぎて脳が溶けてしまわないかしらという心配は少ししたけれど、あたしの場合少し溶けた方が新しい境地に辿り着けそうだ。
「アンジェリーナ……君は……」
なにかを言いかけて、口を閉ざしてしまう【旦那様】は宗教画に出てくる天使か聖人のような少し儚い美しさを纏っている。
流石にあたしに呆れたかしら? お薬が切れてしまったのかもしれない。
「どうしても、君の美しさの前では……怯んでしまうよ」
どうしてかな。【旦那様】の表情が悲しそうに見えてしまう。
だめよ。アンジェリーナ・ハニーを見る人はみんな笑顔じゃないと。
「旦那様、あたしの前で暗いお顔はしないで頂戴。アンジェリーナ・ハニーはみんなを笑顔にする存在なの。だから、旦那様にも笑っていて欲しいし、どうしたら旦那様に楽しんでもらえるのか、いつも考えているのよ?」
無理に笑ってと言うのは逆効果だったかもしれない。【旦那様】は更に悲しそうな顔を見せる。
「すまない……」
完全に視線を逸らされてしまった。そして、一人になりたいとでも言うように、背を向ける。
だめよだめよだめよ。あたし、もっと【旦那様】に可愛がってもらうんだから。
「旦那様、だめ。行かないで。旦那様の悲しいことは全部アンジーが食べちゃうから。ね? だから、一緒に楽しいことしましょう? そうだ! 明日のお出かけの靴にきらきらをたくさん貼ったら歩くときとっても楽しくなるわ」
ストーンもたくさん持ってきている。男性の靴はあまりきらきら飾る習慣はないけれど、【旦那様】ならきっと似合うはずだ。
「……アンジェリーナ……ありがとう。でも、少し休ませて欲しい。君の気持ちは本当に嬉しい。けど……少し移動で疲れてしまったのかもしれない」
申し訳なさそうに言われると、あたしだって胸が痛むわ。
「あたしがお膝で寝てしまったせい?」
「君は悪くないよ。私が寝かしつけてしまったのだから」
優しく慰められてしまう。あたし、今すごく悪い子? 【旦那様】を困らせる悪い子?
いい子にしていないと可愛がってもらえないってジーンが言ってたわ。
「あたし、いい子になるから……旦那様、アンジーのこと嫌いにならないで」
思わずそんなことを口にしてしまう。余計に困らせてしまうってわかっているのに、止められなかった。
「アンジェリーナ……私が君を嫌ったりするはずがないよ」
優しく抱きしめられる。そしてよしよしと、まるでジーンがあたしを泣き止ませるときにするように、頭を撫でてくれる。
これって……【旦那様】はあたしを……妹扱いしているってことかしら?
求婚されたはずなのに、夫婦らしいことはぜんぜんないし……あたしって養子かなにかの扱いなのかしら? たくさんお金を掛けたいみたいな部分は孫に接する祖父母のような部分がある。実際あたしの祖父母は思いっきり甘やかして高価な画材をたくさんくれたし、祖母のクローゼットをよく漁ったけれどもアンジーはかわいいねと喜ばれた。
似てる。【旦那様】は祖父母に似ている……。
「旦那様はあたしのおじいさまになりたいの?」
そう、訊ねると【旦那様】は硬直した。そして、大袈裟に沈んだように項垂れ、言葉を発しない彫刻のようになってしまった。
「旦那様? あたし、なにかおかしなことを言ってしまった? またやってしまったの?」
慌てて訊ねれば、アーノルドが駆けつけてくる。
「これ以上追い打ちを掛けないで下さい。旦那様は大変繊細なお方なのですから」
まただ。【旦那様】は『繊細』なお方。
あたしとは無縁の言葉だわ。
強制的に引き剥がされていく【旦那様】を見送って溜息を吐く。
これからは、いい子の孫で過ごすしかないのかしら?
きっとこのまま一生妻扱いはしてもらえないんだわ。そう思うと悲しくなってしまう。
けど。妻扱いってなんだろう? 孫にしても結局甘やかしてはもらえるのよね。あたしは可愛がってもらいたいのだけど、妻じゃなきゃいけない理由は……特に思い浮かばない。
でも……結婚したんだからやっぱりいちゃらぶ生活は送りたいし、甘やかされたいんじゃなくて可愛がって欲しいのよね。
「難しいわ、旦那様……」
あたしはあたしが大好きだし、きっとこれからもずっとあたしが大好きだと思う。だから、あたしは変わるつもりはない。けど……あたしの大好きなあたしを【旦那様】に好きになってもらうのは難しいことなのかもしれない。
「旦那様の好きになってくれるあたしって、どんなあたしなのかしら?」
部屋に戻り、ドナに訊ねる。
「奥様? 珍しいですね。人の評価を気にするなんて」
「別にあたしは世界で一番あたしが好きだけど……あたしの好きなあたしを旦那様が好きになってくれないなら……ほんの一歩分くらいは譲歩してもいいかなって思っただけ」
他人に好かれることだけ考えて生きるような人間にはなりたくない。あたしはいつだってあたしでいたい。でも、今のあたしは何か変。
「こんなこと、考えたこともなかったけど……あたし、旦那様に嫌われるのが怖いみたい」
嫌われるのが、というか、見捨てられるのが怖い。
だって、あたしに初めて求婚してくれた人よ。きっとこれから先も彼の様な物好きには巡り会えないと思う。
「あたし、旦那様が悲しいお顔をするととても苦しいの。あたしの前にいる人はみんな楽しく笑っていて欲しい。でも、それだけじゃないわ。旦那様はね、いろんな絵の具を置いたばかりのパレットみたいに、あたしをうきうきさせてくれる人だから……もっとあたしで楽しんで欲しいわ」
「奥様……」
ドナは驚いた表情をする。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「でも、旦那様がパレットだったらきっと消え入りそうな淡い色しかないわね。もっと原色を足すべきよ」
「……感激した私の心を返して下さい。折角奥様が旦那様に歩み寄られるのかと思ったのに……ぶれないにも程があります」
「え? 歩み寄る歩み寄る。十分あたしのなかでは歩み寄ってるつもり。旦那様の心臓が止まらないようになるべく脅かさないようにしているし、少しテンションも抑えてるし……いきなり飛びついたりしないように気をつけてるもん……」
本当は毎日たくさんぎゅーぎゅーしたいけどスキンシップは控えめにしているつもりだ。
「これは私の考えですが、たぶん、旦那様は変わらないそのままの奥様に求婚されたのですから、そのままでいいと思いますよ」
「え? いや、だって正直旦那様がどうしてあたしに求婚したのかさえ思い浮かばないもの。きっとあたしの祖父ポジションを狙っているのだと今さっき結論を出したところよ」
「なにをどうしたらそういう結論に至るのですか」
ドナは呆れている。彼女はアナやベティと違って、あたしと思考が違うから、とても新鮮な観点で話してくれる。
「ドナがいると助かるわ。あたしには思い浮かばないことをたくさん教えてくれるもの」
「それはようございました。しかし、奥様、本日旦那様が沈まれた原因はおそらくそれかと」
「それ?」
それってどれだろう? あたしがドナに感激したこと?
「旦那様を祖父呼ばわりしたことかと。ああみえてお若いんですよ? まだ二十五歳ですよ? それを祖父だなんて」
なるほど。年齢を気にしていたのか。
「そういう意味で言ったつもりはなかったけれど、確かに年寄り扱いされたと思ったら悲しんでしまうかもしれないわね。旦那様なら歳を重ねてもきっと素敵だとは思うけれど……傷つけてしまったなら謝らないと」
あたしって、なんでも考えなしで言ってしまうところがあるから、【旦那様】を傷つけてしまうところもあるかもしれないわ。
しばらくドナと話して、いくつか反省点が見つかった。これは今後の参考にしよう。
アンジェリーナ・ハニーは自分が大好きだけど、きちんと反省できる女だ。失敗は成功の母。転んでもただでは起きない。反省はするけどへこみはしないわ。
「旦那様の
気合いを入れるとお腹がぐーっと鳴ってしまったので、腹が減っては軍は出来ぬと詳しい作戦は夕食後に考えることにした。
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