7 「アンジェリーナ・ハニー取り扱い説明書」の疑惑
温かくて幸せな気分。ああ、これは小さな頃、
王子様と結婚して幸せ? でも、王子様は浮気者かもしれないし、暴力男かもしれない。とんでもない変態プレイに付き合わされるかもしれない。幸せかどうかなんて他人にはわからないじゃない。
考えすぎと言われればそれまでだけど、想像力が豊かなあたしはどうしても物語の結末におぞましい物が隠されているような気がした。
今の現状みたいに。
あたしの状況はまさに、王子様に見初められめでたしめでたしで終わる
優しく包み込んでくれる温もりは遠ざかったりはしない。
ぱっちりと目を開ける。視界には美形。
なにが起きているのだろう。理解するまでに数秒必要だった。
透き通るような美しい金の髪は確かに【旦那様】の髪色だ。このお人形みたいな綺麗な顔も、たぶんそうだろう。あまりじっくりとお顔を見たことがないから確信は持てない。特に眠っているところは初めて見た。
けれども彼はとても穏やかに眠っている。それもあたしを抱きしめて。
一体どうしてこうなったのだろう。
昨夜の記憶は少し曖昧だけれども、またあの凄テクに敗北したであろうことは予想がつく。
それにしても綺麗な顔だ。素体でこれなのだ。メイクして着飾れば絶世の美女になるだろう。どうして女装させることを真っ先に考えてしまったかはわからないが、普段も優美な【旦那様】ならミスコン優勝も間違いないだろうと思ってしまう。
じっと見つめても、起きる気配はない。穏やかな朝陽がが差し込み始めた頃だけれど、たぶんもう少し後にアーノルドが起こしに来るのだろう。あたしはまだその現場を未経験だけど。
もしやとひらめいてしまう。これは、おはようのチューをするチャンスでは? いくら【旦那様】がへたれのムッツリだとしてもかわいいアンジーがお目覚めのチューをしたら流石に少しくらいはその気になってくれるのではないだろうか。いや、最終手段はもう寝込みを襲うしかない。
新婚らぶらぶ生活の為なら多少の無茶はするわ。
自分でもなぜこんなにムキになっているのかはわからない。ただ、こんなにかわいいアンジーに見向きもされないことが悔しいのか、前世のさえない男が手に入れられなかった夫婦生活に対する強い願望なのか、それとも、ただ単純に【旦那様】をからかうのを楽しんでいるのか。既にあたし自身、理解できない境地。けれども、【旦那様】に可愛がられたいというのは本心だ。
「……寝込み襲うって言っても……女の体の勝手はよくわからないしなぁ……うん。本当に嫁に出されるとは思ってなかったからなぁ……」
貴族のお嬢さんならそういう教育も勿論ある。けれどもあたしは問題児だ。お父様ももう嫁に出すことは諦めていた。だからあたしは入門編の初級も初級くらいの教育しか受けていない。体の仕組みは知識として知っているけれど、寝込みの襲い方なんて習っていない。
「……旦那様に優しくリードして欲しいけど……その気にさせるのが先よね」
【旦那様】の上に乗ってキスしようと顔を近づけた。はずだった。
「……アンジェリーナ?」
大きな手に阻止された。
少し寝ぼけた【旦那様】が数秒遅れて硬直する。
「旦那様が可愛がってくださらないならアンジーが旦那様をたくさん可愛がってあげる」
あたし史上一番甘ったるい声が出たと思う。中身は元さえない男だが今は超かわいいアンジェリーナの
「……アンジェリーナ……降りてくれ……仕事がある」
静かな声は呆れすら含んでいる様に思える。
「旦那様、アンジーのこと、嫌い?」
あざとく、涙を浮かべて訊ねる。少し目に力を込めればすぐに泣ける。
【旦那様】はまた硬直して、それから慌てたようにあたしを抱き寄せた。
「アンジェリーナ……泣かないで……君を嫌っているはずがないだろう? ああ、泣かれては……女性が泣いたときは……ええっと……」
混乱しているのか、彼は口にしてはいけない言葉を口にしていることに気付いていないようだ。
「あたしの扱い方マニュアルでもあるの?」
思わず素の声で訊ねてしまう。ちょっと低めだから普段のテンション高めのアンジェリーナ・ハニーに慣れている人はびっくりしてしまうかもしれない。
「あ、いや……その……」
【旦那様】は目を泳がせる。これはあるのか。
どこだ。出せと睨む。
「ジュリアン様、本日の朝食は……」
ノックとほぼ同時に入ってきたアーノルドが硬直する。
「……で、出直します」
「いや、すぐ行く」
むしろ行かせてくれといった様子の【旦那様】に呆れてしまう。
よし。今日は家捜しをしよう。旦那様が持っているはずの『アンジー取り扱いマニュアル』を探さないと。
見つからない。当然寝室にはあたしも居るのだからあるはずがないと気がつくのに一時間以上かかった。
「アンジェリーナ様、あるとしたら旦那様の書斎では?」
「あそこはアーノルドさんが厳しい目で警備しちゃってるから入れないですよー」
アナとベティは強力してくれているのかいないのか、メイドとして清掃に紛れて入り込むことくらいできるだろうにしてくれる気はないらしい。
「チャード! あなたなにか知っているでしょう? 出しなさいよ!」
とても夫の、そして兄の友人に対する態度とは思えないが、捕獲したチャドを問い詰める。
「ねぇ、旦那様があたしの取扱説明書を持っているみたいなの。出所はどこ? ユージーン? それともあなた?」
返答によってはキャンバスにするわよと脅しになるのかならないかわからない脅し文句を言う。
「えっと……取り扱い説明書って?」
とぼけるつもりらしい。
「ベティ、チャドの服を脱がせて。下着まで全部。全身にボディペイントをしてあげるわ」
「いやいやいや、待って! それだめなやつ! ジルに殺されるからやめて!」
チャドはすごい慌て様だ。これは面白い。ボディペイントは脅迫に使えるようだ。
「じゃあ、旦那様の『アンジー取り扱いマニュアル』はどこにあるの? ねぇ、どんなことが書いてあるの? かわいいアンジーをマニュアルで思い通りに動かそうとしているの? 旦那様は同性愛者なの? めんどくさい妻を適当にあしらおうとしているの?」
絵の具を混ぜ合わせながら問い詰める。こっちは本気だぞアピールだ。
「いやいや、それはないって……いや、ちょっとアンジーと過ごしやすくなるコツ……くらいはジーンと俺が……いや、待って、塗らないで!」
顔にペタペタと絵の具を塗りつければまるで拷問を受けているかのようなリアクションをされる。
「あたしが泣いたときの対処法を必死に検索していたわ。ねぇ、旦那様になにを吹き込んだの?」
あたしの【旦那様】なのにチャドは随分と距離が近いしあたしよりもたくさん構ってもらっている。ずるい。
ベティが容赦なくチャドの上着を剥ぎ取る。良く訓練されたメイド達は基本あたしには従順だ。価値観を一部共有している。
「待って! マジでジルが怖いから待って!」
「どうして旦那様が怖いの? あなたが今恐れるべきなのはあたしよ。ねぇ、あたしの旦那様になにを吹き込んだの?」
本当に気に入らない。首にもべっとりと絵の具を塗ってあげる。あ、シャツが汚れてしまったわね。まぁいいわ。
「いや、だから……泣いたときは優しく抱きしめて慰めてやれって……言っただけだよ……アンジーだってたくさん可愛がって欲しいんだろう? アンジーに損はないはずだ」
確かに優しく慰められたらときめくけど、混乱しながら検索をされたらムードはぶち壊しだ。
なによりチャドに言われて動くなんて気に入らない。
「アナ、シャツも脱がせて」
「はい、アンジェリーナ様」
アナは淡々とチャドのシャツを脱がせる。
「ベティ、塗料が足りないわ。これ同じの持ってきて」
「はい」
「マジでもう勘弁してくれよ~」
一応騎士であるはずのチャドが泣き声で懇願してくるのがなんとも愉快だ。
「だーめ、あたしの旦那様にいろいろいけないことを吹き込んでくれたんだもの……それに、屋敷の中では好きに過ごしていいって旦那様の許可も頂いている物。屋敷の中にあるものはぜーんぶあたしのおもちゃよね?」
とても悪役っぽい笑みになったと思う。けれども今チャドに容赦をするわけにはいかない。
「それで? 他にはなにを吹き込んだのかしら?」
ぺたぺたと絵の具を塗りながら訊ねる。
そして絵が完成するまで、チャドは恥ずかしさとくすぐったさ、そして【旦那様】への恐怖で悶えることになった。
「たまには旦那様も一緒にお夕食にしたいのに、いつもお忙しいと断られてしまうの」
チャドが結構暴れてくれたからあたしのドレスも絵の具まみれだけれど、これはこれでいい色になったきがする。
「こんなにかわいいアンジーが誘っても、どうして承諾してくれないのかしら」
「……ジルは……なんでこんないかれた女に……」
チャドの声は震えている。本当に下着まで没収されるとは思わなかったのだろう。けど、うちのメイドは容赦しない。まぁ、ちゃんとペイント用の下着は履かせたけど。
「あら、最初の装いよりずっと素敵じゃない」
「どう見たって変態だろこれ!」
珍しく本気で怒っているっぽい。
「旦那様の体にペイントしたら彼も少しくらい怒って下さるかしら?」
そう訊ねれば、もう溜息しか出してくれない。
チャドには最初の服より素敵な服をちゃんと描いてあげたのにどうして怒られなくてはいけないのだろう。そのまま街で買い物だってできてしまう程の出来なのに。
「アンジェリーナ様、少しタイト過ぎたのでは?」
「あら、最初の服より素敵よ。あれはサイズがフィットしていなかったもの」
そう告げれば、チャドに睨まれてしまう。
「重要なのはサイズのフィット感よ。安物でも体にフィットしていればそれなりに見えるもの」
「フィットしすぎだろ。それに、ジルの上着を容赦なく切り刻んだってことは俺のあれもそうするつもりか?」
「まさか。あんなゴミ着たくない」
なんというか量産型で面白みのない服なのよね。確かに外れはないとは思うけど、個性も感じさせない。無難と言えば聞こえがいいが逃げとしか感じられないデザインだ。
「ひっで、ゴミって……あれだって決して安くはないんだぞ……」
「誰が着てもそれなりな服なんてゴミよ。その点旦那様はいつも素敵な装いよね。彼にとても良く合っている。でもあたしならもっと素敵に出来ると思うわ。ええ。色味が足りないのよ。旦那様はもっと原色を使って冒険してみるべきだと思うわ」
「警告色の女に言われたくねーよ」
チャドは寒いのか体をさすりながら言う。
「チャド、なんて格好をしているんだ」
後ろから静かで冷たい声が響く。
「ジル……お前の嫁いかれてるよ! 助けてくれ。こいつ……俺にお前が取られたってメイド使って服脱がせて五時間もペイントを続けてたんだぞ!」
一部事実ではないことが含まれている気がするが概ね合っている。
特にあたしがいかれてるって部分。
「……アンジェリーナがこれを?」
また気温が下がるような声。もしかしなくても悪戯をやり過ぎて怒られている気がする。
「チャド、シャーベットを振る舞ってやろう」
「いや、待って! 普通先に嫁の処理だろ! あの女頭おかしいぞ!」
うん。すごく事実を並べられている気がする。
けど、【旦那様】はあたしに視線すら向けてくれない。
「アンジー! お前からもなんか言ってくれよ!」
「えー、旦那様はあたしよりチャドの言葉を聞きたいみたいだしー、あたしの話なんてどうせ聞いてくれないしー」
わざと拗ねた仕種で言えば、一瞬だけ【旦那様】の視線がこっちを向く。これは叱られるかもしれないと一瞬期待したけれど、彼はなにも言わずに視線を逸らし、その細い腕の何処にそんな力があるのだろうと思う状態でチャドを引きずって行ってしまった。
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