5 二つの顔の旦那様
「あたしちゃんとかわいいわよね? かわいくてセクシーで美人よね?」
思わずチャドに掴みかかる。
というのも結婚して一週間。一度も【旦那様】に可愛がってもらえていない。あの手この手で待ち構えた。むっつりの【旦那様】向けに低刺激なふりふりの白いネグリジェも試した。凄テクで寝かしつけられた。少し熱かったけど、ベッドの上にお皿を模したシートを敷いて体にチョコレートソースをかけてチョコレートケーキになりきってみたけど素通りされた。蜂のドレスが好みだったのかと思い、蜂っぽいネグリジェを用意してみたけど、それもだめ。一つわかったのはセクシーすぎると同衾拒否されることくらいだろうか。
「アンジー、落ち着いて」
チャドに宥められる。彼は今日、【旦那様】に用事があったらしいが、【旦那様】は仮眠中の為あたしのお茶の相手をさせている。お茶という名の愚痴だ。
「旦那様は
求婚してくれたのだからたくさん可愛がってもらえるとと思ったのに、彼から声を掛けられたのは一度きりだ。それも、カーディガンを貸してくれたときだけ。
「それは、アンジーが積極的すぎるから戸惑っているんだと思うよ? ジルはとっても繊細だから」
そう言いつつもチャドは視線を逸らす。なにか後ろめたいことがあるのだろう。
「アンジーが屋敷に来てからなにも作品を作っていないのを心配している。スランプか?」
「いいえ。ただ、旦那様がどうしてかわいがってくださらないのかしらと考えていたら、あっという間に一日が終わってしまうの。あたし、ちゃんとかわいいわよね?」
こんなにも素通りを続けられてしまうと流石に自信が折れてしまう。
前世の基準ならアンジェリーナ・ハニーはかわいい。ものすごくかわいくてセクシーでいけてる女だ。服装が奇抜なだけで。
「チャド、あなた旦那様の友人なんでしょう? お願い。知恵を貸して。どうしたら旦那様にかわいがってもらえるかしら? たくさんかわいいアンジーって呼んで欲しいの」
前世の男としての感覚は勿論あるが、それでも今は女性だ。それに、前世とこの世界では基準がいろいろ違ってくるかもしれない。そうなると、頼れるのは中立の立場の意見だ。
「あなたが
こんなに仕掛けてもなにも反応がないとなると、彼が同性愛者という可能性も浮上してしまう。
「それはない。アンジー。俺は女装願望はないし、ジルはちゃんと君をかわいいと思っているよ。ただ、君がかわいすぎるのが問題なんだ。だから、もう少し大人しく、猫を被っていてくれ。そろそろジルの心臓が止まるかもしれない」
チャドは笑う。上手く言いくるめようとしているのかしら?
「今日はプレゼントの大きな箱に入って待ち構えようと思っているの。リボンでかわいくラッピングしたアンジーをプレゼントするわ。だってみんな、ギフトボックスを開けるのは大好きでしょ? これならきっと旦那様も喜んでくれるんじゃないかしら?」
「……君が風邪をひかないか心配してそっと箱の中に毛布を入れて蓋をするんじゃないかな?」
その言葉に【旦那様】ならやりかねないと納得をしてしまう。
「ジルにはちゃんとアンジーが寂しがっていると伝えておくよ。だから、今夜は大人しく、彼から近づくのを待ってあげて」
優しく諭すように言う姿は、あたしがやらかし過ぎたときにユージーンがやるそれに似ていた。
「嫌よ。また凄テクに敗北しちゃう」
「ジルのあれなぁ……無駄に寝かしつけるの上手いよな。うちの暴れん坊な弟たちも一瞬だったしなぁ」
どうやらチャドは知っているらしい。
「背中にパット入れても勝てなかったわ」
「アンジー、頑張る方向を間違えているよ」
とっても濃い、激苦コーヒーをたくさん飲んでもだめだったし、旦那様のあの凄テクには勝てる気がしない。
「大丈夫。今夜は俺がなんとかするから。アンジーは部屋で作品に集中していればいいよ」
チャドはまるであたしを妹扱いね。全部兄さんに任せろみたいな顔でそう言って、あたしの【旦那様】に呼ばれて言った。
チャドはたくさん構ってもらえるのに納得がいかない。
むかむかとしながら、ミシンを動かす。構ってもらえない腹いせにドレスを作っていた。【旦那様】の豪奢な上着で。
ロング丈の上着は、繊細な刺繍と織りの美しい生地だ。普段のあたしなら選ばないデザインだけど、流石に自分の上着がドレスに替わったら怒るか呆れるかなんらかのリアクションはしてくれるはずだ。
リメイクは結構時間が掛かるのよねと思いつつもあたしの手に掛かれば職人技よ。半日で見事な出来映え。満足しているわ。
「わー、奥様お上手ですね。職人顔負けの縫製技術です」
ドナが感心したように言う。
「何でも作るわ。作ることが好きなの。ドナにもなにか作る? ああ、旦那様が放り投げていった寝衣があるわ。いい生地だけどエプロンにしたらかわいいかもしれないわ」
「奥様……まさかとは思いますが、そのドレスも……」
「旦那様の上着よ。カーテンは趣味じゃなかったから」
ドナが青ざめていく。
「奥様……流石にそれは叱られてしまうのでは?」
「叱られたら儲けね。旦那様はあたしに興味がないみたいだから、なにか反応が欲しいの。怒られて追い出されたならその時はその時よ……この一週間であたしのプライドはずたずたなんだから……」
あたしくらいかわいかったらたくさん可愛がってもらえると思っていたのに、まともに会話すらしたことがない。
「アンジェリーナ様、旦那様からお手紙です」
アナが静かに封筒を差し出す。
「お手紙? 同じ家に住んでいるのに?」
よほどあたしには会いたくないらしい。
アンジェリーナ。寂しい思いをさせてしまってすまない。無理に私に構う必要はない。君の創作に集中して欲しい。必要な物があればなんでも購入して構わない。アーノルドに手配させよう。君の豊かな想像力が失われてしまうのは大きな損害だ。私はあまり構ってあげられないが、君の作品を楽しみにしているよ。
愛を込めての一言がないことにがっかりする。それに創作に集中しろだなんて。
「……ねぇ、旦那様はあたしになにを買ってもいいって書いてあるわよね?」
ドナとアナに手紙を見せつける。
「はい」
「確かにそのように……」
二人に確かに確認した。物的証拠も証人も確保した。
「……無理難題を言って後悔させてやるわ」
そうは思ったが、なんでも買っていいと言われて旦那様を困らせるような高額な物が中々思い浮かばない。
いや、実は前からとても欲しいと思っていた品があるのだけれど、果たして侯爵家の財政でそれは購入可能なのだろうか。
「……旦那様がアンジーになんでも買ってくれるとおっしゃったの。だから~、アンジー、工業用プリンターが欲しいなぁ」
アーノルドを呼んで思いっきり甘ったるい声で言う。
この世界、布用のプリンターは確かに存在する。しかし、本体も高額だがインクも非常に高額であまり実用的ではないとされている。が、オリジナルデザインのプリント生地を作れるのだ。世界にたった一着のペイントで作るドレスも素敵だが、オリジナルプリントで作るドレス。量産はできなくても、アンジェリーナ・ハニーの作品と言うだけで価値はある。あたしの絵をそのまま服にできるのだから。
「……た、確かに旦那様の筆跡ですが……流石にそれは……」
アーノルドが冷や汗をかいている。やはり侯爵家としても高額なのか。
「どうしたんだい?」
柔らかい声が響く。声の主は上機嫌のように見える。
「旦那様、じつはアンジェリーナ様が、工業用のプリンターをご所望と言うことで」
「うん。いいんじゃない? 彼女なら有意義に使ってくれると思うよ」
「しかし、購入にも維持にもいささか高額過ぎでは?」
うん。正直本体一つ買うのにもハニー伯爵家の一年分の食費くらいになってしまう。インクも大量に使うとなるとあたしが消費する絵の具の三年分くらいの価格になってしまうかもしれない。妻のご機嫌取りには高額すぎる。
「アンジーが欲しがるならなんでも買ってあげると約束したからね。構ってあげられない分、彼女の為にならいくら使っても構わないよ」
とても穏やかで上機嫌な彼は、確かにあたしに求婚してくれたあの人だ。
「旦那様? 本当にいいの? だって、とっても高価なものよ?」
「君が望むなら構わないよ。アンジー、今日もとってもかわいいね」
すっと手を取られたかと思うと、手の甲に柔らかい感触。キスされたのだと気付くのに少し時間が掛かってしまうほど、目の前の彼が【旦那様】と同一人物だとは信じられない。
「か、かわいい? 本当に、あたし、かわいい?」
思わず確認してしまう。この一週間、一度も彼に見向きもされなかったからとても軸が揺らいでいる。
「ああ。かわいいよ。私を夢中にさせるかわいい女性は君しかいない」
上機嫌な彼は少しあやしい足取りで、それでも優美さは失わずにあたしを抱き寄せた。
「こんなにかわいい妻を甘やかしたいと思うのは普通だろう? ねぇ? アーノルド。ああ、大きな機械を入れるには今のアンジーの部屋じゃ狭いかな。庭の一部を潰して作業用の別館を作ろう。アンジーの好きな物を好きなように置いて構わないよ。ああ、金のことは心配しなくていい。私がなんとかする。けど、ちゃんと帰ってきておくれよ? 別館に引きこもってしまうようでは困るからね」
あの無口な【旦那様】は何処へ行ってしまったのだろうと思うほどに彼は饒舌だ。
「ジュリアン様、流石にそれは」
「いいじゃないか。金は稼げばいいがアンジーは一人しかいないんだよ。ね? アンジー」
優しく囁かれるとなにも考えられなくなってしまう。
普段の【旦那様】が影武者だと言われても信じてしまうほど、今の彼は別人だ。それに、優しい腕が心地よい。
「旦那様、素面の時にもう一度検討してください」
アーノルドが厳しい声で言う。
素面の時? つまり、今、彼はとても酔っている?
「頭はまともだよ。一杯しか飲んでいない」
「呑むと気が大きくなりすぎるのです」
つまり、素面があの【旦那様】で、酔っている方があたしに求婚した人なのだろうか。
「……確かに、ちょっとお酒の臭いがするわ……」
そう言えば、あの時もちょっぴり足取りがあやしかったかもしれない。
「ワインをほんのグラスに一杯だよ。平気さ」
穏やかな笑みは社交の場でよく目にするあの
「すごい、普段と別人」
思わず感動してしまう。確かにお酒で少し態度が大きくなる人はいるけれど、彼はそんな次元じゃない。別の人格と言うべきか、よく似た双子と入れ替わったと言われても信じてしまう。
「創作意欲がツンツン刺激されたわ。旦那様、ごめんなさい。今夜はちょっと隣の部屋が匂うかもしれないけど我慢して」
大急ぎで自分の部屋に入りキャンバスを広げる。
久々にいい作品ができそうだ。
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