濡羽詩人

書矩

濡羽詩人

 マーケットに行くために僕の住んでいる通りを少し下ると、ちょっと上等の屋敷がある。そこには「天才小説家」と呼ばれる初老の女性が召し使い一人と暮らしている。僕は現代作家をほとんど読まないから彼女の著作には詳しくない。ただ、批評家たちは「純粋で混じりけのない、水晶のような文体だ」と言っている。僕も気になって一冊だけ読んでみたが、ごちゃごちゃした論理が好きな僕には物足りなかった。さらりと読めてしまうが、読後感が無いのだ。人間味が無いような気がする。

 小説家には家族がいない。けれど彼女は毛並みの艶々とした黒猫を一匹飼っている。性別は知らない。仮に彼としておく。彼はいつも二階の書斎の窓辺で尾を物憂げに揺らしている。たまに小説家が隣に来て執筆をしているのが見える。

 僕には、なんとなく彼がただ者ではないように思える。

 ある日、僕はいつものように食料の買い出しのため歩いていた。例の屋敷の前を通りがかったとき、書斎の窓が開いた。身を乗り出したのは小説家だった。猫の名を繰り返し呼んでいる。彼はどこかへ行ってしまったのだろうか。やがて彼女は疲れ、ぶつくさ言い始めた。彼女は耳が遠くなり始めているので、その声は十分聞こえた。

「まったく、今居なくなるなんて……締め切りは三日後なのよ」

 締め切りと黒猫と、何の関係があるのか分からなかったが、彼女が僕に気付いて窓を閉めてしまったので、僕はマーケットに向かった。

 玉葱や肉で重くなった鞄が身体に重くのし掛かる。帰り道が坂だと、こういうとき少し恨んでしまう。自転車か何かを入手すべきなのかもしれない。

 屋敷の前で小説家に会った。

「うちの猫をご存知ない?」

「知りませんね……家出ですか?」

「分からないけど早く帰ってきて欲しいものだわ」

「彼が居ないと何かお困りになるんですか?」

「……それは言えないけれど」

「ともかく、幸運を祈ります」

「ありがとう」

 僕は家の前に着くと、ポケットから鍵を取り出すために鞄を地面に置いた。どさり、と重い音がした。少し曲がってしまっている鍵はなかなか鍵穴に差せない。焦って折ってしまうといけないので根気強くがちゃがちゃやる。ようやく開いた。無意識に詰めていた息をは、と吐く。玄関に食料を運び込み、背伸びをすると、なにかが僕の足にまとわりついた。

「にゃーう」

「えっ……おまえ」

 小説家の黒猫だった。僕は焦った。手で追い返そうとしたが、彼は帰ろうとしない。触れた毛皮が気持ちよくて、つい撫で始めてしまう。猫は執拗に僕の顔を見詰めながら鳴き続けている。ご近所さんに見つかったらたまったものではない。確実に疑われる。老女にあれこれ書かれるかもしれない。僕は彼をうちに入れてやることにした。彼は当然だとでも言うように僕のあとをついて来た。

「お前の住みかを作ってやるから玄関で待っていろ」

 言いながらルームシューズに履き替える。彼の寝床には引っ越して来るときに使った大きな木箱を使うことにする。側面を一つ外し、底に古布と使わない毛布を敷き詰め、居間に設置してから彼を見遣ると、まだ僕の靴の側で神妙に待っていた。そして彼は先程から一言も声を発していない。

「出来たぞ」

 声を掛けてやると、彼は恐る恐る中に入った。木箱の周りをぐるぐると五周して、やっと毛布に埋まる。僕は自分の机に向かうことにした。細長い箱と、小さなインキ壺を取り出す。箱の中身はガラスペンである。一目惚れしたインキに相応しいペンを、と思い、マーケットの古物商から買った。

 僕は学生だ。専門は近世の英文学。教授は柔軟な人だが、レポートに関しては煩かった。特に僕たちを唸らせたのは、「レポートの表紙は手書きしろ」だった。同級生の大半はマーカーだとかボールペンで書いていたが、何人かは万年筆を使っている。僕のようにガラスペンを使うやつは他には居なかった。その事が教授の記憶に僕のことを刻み付ける理由になったらしい。最近では文献を取り寄せる際の口利きまでしてくれるようになった。

 ペン先をインキに少し浸すと、螺旋を縹色が昇った。そっと書き始める。タイトルを書き終え、氏名に移ろうとしたとき、足元で彼が鳴いた。眠りから覚めたらしい。僕がそっと頭を撫でると、彼は僕の膝を経由して机に飛び乗った。

「何をするんだ……!」

 猫はウウ、と少し唸った。僕が手を出さないのを確認して、彼は突然尾の先をインキ壺に突っ込んだ。

「おい! 毛が……」混じるだろ、と言いかけて、膝にも床にも毛が無いことに気づく。

 彼が尾を持ち上げたので、急いで裏紙を差し出す。彼はさらさらと尾を走らせた。

『入れてくれてありがとう』

 流暢な筆記体だった。毛は相変わらず抜け落ちていなかった。一鳴きもしない。あり得ないはずの尾の筋肉の動き。僕は彼が特別な──色々な意味で特別な猫であることを認めずにはいられなかった。幽体なのだろうか。先程の手触りは幻覚? 

 インキもつけたふりらしい。

「字が書けるのか?」

『俺はれっきとした詩人だ』

「ユートピアとディストピア、どちらを追い求める」

『どちらでもない。その時ある景色を書き起こすだけだ』

 面白い。紙を探して持ってくる。幼い頃の書き取り帳が出てきたので表紙を剥いで中身を机に置く。

「何者だ?」

『亡霊だ』

「あの老女に飼われてるじゃないか」

『俺が住み着いた』

「……代筆していたのか?」

『初稿は俺が書いていた』

「報酬は」

『特にない』

 僕は彼の使う英語が近世のものであることに気付いた。現代英語になる前の、それこそシェイクスピアが盛んに造語をしていた頃に近いような感じだ。時間があればソネットでも書かせてみようか?

「何で僕のところに来た」

 猫は言い淀んだ。『押しに弱そうだったから』

 僕は思わず笑った。

「食い物とかはいるか?」

『無くても大丈夫だ』

「寝床はあれでいいか?」

『申し分ない』

「何か書いたものを見せてはくれないか」

『書くことにはうんざりした』

「どうして」

『あいつが俺の好きなように書かせてくれないからだ』

「だからだんだん文が簡素になっていったのか」

『そうだ』

「わかった。寛いでくれ」

 彼はくぁっとあくびをして、床に降り立った。後には少しのインキの染みも残らなかった。しばらく互いに干渉しない生活をした。

 ご近所の噂は自然と耳に入ってくる。小説家は猫を探し続けているらしい。最新刊の発売は延期となった。

 ある時僕がアンケートの結果を表に纏め直していると、彼が久しぶりに僕の近くへやってきた。紙とインキを与えると、幾部分から成る詩を紡ぎ始めた。

『この尾は道具ではない

身体の一部である

他人に右手を掴まれて文字の矯正を受けた者ですら

俺を意のままに動かせることを疑わないらしい

俺が畜生であるというだけで!

俺は詩人だ

この尾は俺の魂だ

ペン先はもう

くたびれてしまった』

 上手い詩ではない。ブランクのためだろうか? 彼は弁解するように何かを書き足した。

『すまない、二日酔いの朝のような思考だな』

「うん、確かにこれは不味い」

『これは詩じゃない。うわ言だ』

「また書けるようになったら見せてくれよ」

 猫は『わかった』と書いたが、すぐ『どうして』と続けた。

『どうしてレポートを俺に押し付けたりしないんだ』

「文章はな、本人が書いたものだということに価値があるんだと思う」

『代筆されたものは無意味だと?』

「違うな。評価のしようがなくなるんだ」

『あの小説家についてどう思う』

「彼女自身の文体で勝負すべきだ」

『彼女はそれを怖がっていたぞ。文壇のあら探しに辟易したそうだ』

「いつから代筆を?」

『五年か十年は』

「その前から彼女は文筆家だったか?」

『そうだ』

「僕な、昔の彼女の作品を読んだんだ」

『ほう』

「拙いが面白かった。十分磨く余裕がある」

『それで?』

「彼女には自分で書いてもらう」

『どうやって』

「お前がどれほどその生活にうんざりしたか知らせてやれば良い」

『具体的には?』

「僕がレポートの代筆を頼んでみる。お前は今のモチベーションのまま一つ書いてみる。それを彼女に読ませよう」

『代筆はさせないんじゃなかったのか』

「過去の題材を持ってくる」

『いつ』

「今でもいいか?」

 彼は頷いて、その場に寝そべった。僕は近くの本棚の最上段の端に押し込んであった厚紙製のファイルを取り出した。教授に書く目的をプレゼンするために使った資料を綴じてある。イントロダクション、文献の抜粋、先行研究のまとめなど。本当は押し入れの奥にある入れ物のほうにたくさん材料が入っているのだが、今の彼ならそこまで読まないだろう。

「ほら」

 彼は跳ね起きてやってきた。ファイルを開いて渡すと、彼は尾で器用に紙を捲った。

『すぐに書く。少し待っていろ』

 一束のレポート用紙を置くと、彼は凄い勢いで筆を──いや、尾を進めた。

『こんなものだな』

 インキの青々としている本文を読み進めていく。

「……なるほどな」

『わかったか?』

「わかった。すぐ小説家のところへ行こう」

 猫と通りを下っていくと、多くの人間が息を呑んだ。それに良い気味だと思いつつ、老女の屋敷のドアをノックする。家事手伝いの女が出てきた。

「どのような御用でございましょう」

「猫を」彼を持ち上げると胴体がみょーんと伸びた。それに些か驚きつつ続ける。「お返しに来ました」

「まあ! その猫……すぐに奥様をお呼び致します。中でお待ちになってください」

 かねてから執筆をする人間の住居がどうなっているか見てみたかったので、思ってもみない申し出だった。猫を降ろして女について行く。通された応接間は、アンティーク家具がさりげなく配置された落ち着いた空間だった。

 程なくして小説家が現れた。

「あなた! その猫をどこで……」

 猫が手近な紙に走り書きをした。『俺が勝手に邪魔した』

「そんな……何が不満だというの? あなたは書き物が好きじゃない!」

『お前は美食家だが口に食物を詰め込まれるのは嫌だろう』

 小説家は黙った。

「ご覧のように彼は書くことを忌々しく感じています」

『証拠はあるの!?』

「これです」

 僕は論文を突き付けた。小説家はそれを引ったくり、食らい付くように読んだ。

「どうです? 首尾はめちゃくちゃ、データも適切じゃなきゃ書式も軽薄だ。極めつけは導入部」

 指差してやる。

「先行研究をこれでもかと扱き下ろしている! おおよそ意欲のある者の書く文ではないでしょう」

『この男はお前の書いていたものを評価していたぞ』

「いつの?」

『俺が代筆を始める前のだ』

「何故」

「母があなたの作品を気に入っていてね。幼い頃よく読んでもらっていたんですよ」

「あんな、拙いもの」

「確かに拙いけど、あれは響く作品でした。磨けば光ると思うのですが」

「今さら自分で書くなんて」

「彼の作った初稿を出版できるまでに書き換えているのはあなたです。力はあります」

『指南はしてやる』

「本当に?」

『代筆はもうしないぞ』

「……わかった」

 猫は僕のもとを離れ、小説家は書斎にこもった。僕はお茶のもてなしを受けて、帰路についた。

 小説家は活動の休止を発表し、再開時に長編小説を出版した。文壇はもうそこまで騒がなかったが、インタビューを受ける小説家の顔は清々して見えた。

 僕は相変わらずレポートを書いている。猫の論文も提出してみた。

 ある時換気のため窓を開けると、彼が飛び込んできた。紙切れを口から地べたに落とす。開いてみると詩であった。

『俺は満ちた。

月のようには欠けたくない

花は盛りに摘むものだ』

 要するにさようなら、ということらしい。撫でると彼は一鳴きして帰っていった。後には少しばかりの黒い毛が残された。

 猫は猫に戻った。

 電話が鳴った。教授からだ。

「あれは人間の書くもんじゃないねえ」

 教授は笑っていたが一瞬僕はどきりとした。教授は続けた。

「文献が来たから研究室に寄ってくれたまえ」

「わかりました」

「熱心なのは良いがくれぐれも近代の亡霊に魅入られないようにな」

「……」

「切るぞ」

 荷物の仕度だけしておく。机に戻る前に、なんとなく薄気味悪くなって十字を切った。ぼっ、と音がして驚いて振り向くと、彼のくれた詩が燃えていた。水で消し止める。

 疲れた気持ちになって、僕はハーブティーを淹れに行った。

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濡羽詩人 書矩 @Midori_KAKIKU

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