最終話
床に開かれた魔法陣は未だに脈を放っている。サマリスが少し感心しながらその一端を撫でた。
「だが、サミー。瞬間移動の魔法に、こんなに大きな魔法陣はいらないんじゃないのか?」
「……? サマリス、変なボケ方しないで。それこそ、頭大丈夫? これ、瞬間移動の魔法じゃないよ。よく見て」
サウサミーケがそう言って、サマリスのことを助け起こした。
彼が自分の寝転がっていた部分を見ると、どこか見覚えがある。自分の頬にある魔法陣と同じものだった。サウサミーケが組み替えた、あの治癒魔法の魔法陣だ。
「……サミー、これは……」
「そうだよ」
サウサミーケがわずかに体を反らして、言う。さすがの彼女も肘を擦りむいていた。せっかくのシャツにぽっかり穴があいている。
「サマリスの手のひらの魔法陣を応用してみたんだ。魔法陣を早く書く奴。意外とぶっつけでもできるね。でも、治す魔法は途中で魔法陣を忘れちゃったから、適当に書いたんだ」
幼い顔が屈託なく笑う。
彼女の視界の先には何が映っているのだろうか。まさか、あの愚かな四兄弟か。
魔法陣が激しく光った。影すらもかき消す光である。
「元に戻るんだ、全部、全部」
サウサミーケの言葉が轟音に包まれる。
この魔法陣はこの場所にあるだけではない。この屋敷全体に広がっている。
「約束だ、決まりごとだ、元に戻れ」
魔力の粒子があたりに散っている。西陽を受けてより一層煌めいていた。
光の中にサウサミーケがいる。惨状は、既に平穏を取り戻していた。唯一暖炉だけが元の形状をとどめていない。崩れたままそこにある。
傷がすっかり消えた貴族の兄弟が辺りを見回している。サウサミーケが薄ら笑いながら近づく。瞳の魔法陣はせわしなく回り続けていた。
「それが、傷つけられ、治されたものの痛みだ」
既に戦う意志はないだろう。赤子のようにサウサミーケを見上げているだけだった。
「サマリスとサウサミーケは旅に出る。今後邪魔でもしてみろ、こんなものじゃすまないからな」
それだけを言いに、二人はこの屋敷に足を踏み入れたのだ。
全ては終わったかのように思われたが、サウサミーケがふと気がついたような顔をする。しゃがみこんで何やらエルリスに耳打ちをする。エルリスはサウサミーケの顔も見ずに頷き「わかった、約束する」と呟いていた。
さて、サウサミーケがサマリスのもとへ凱旋してきた。彼女は英雄だ。彼のもろもろの戦争は終わったのである。
久しぶりに笑った、晴れ晴れとした気分であった。
しかし。
今度、なぜかサマリスが胸ぐらを掴まれている。せめて助け起こして欲しかったが、サウサミーケにそんな甘ったれたことを言えるような年ではない。
瞳の中の魔法陣がぐるりぐるりと回っている。茶色く、汚れた額が、血にまみれたサマリスの額と合わさる。
間があった。
「サマリス」
「何だ、サミー」
「お前、騙したな。サウサミーケのこと騙した!」
「い、いつ? 何の話だ?」
どの話だろうか、サマリスのどの嘘がばれたのか。彼はサウサミーケにまだたくさんの隠し事をしている。
心臓が早鐘を打った。今までで一番緊張しているかもしれない。
サウサミーケの小さな、しかし力のある拳がサマリスのオレンジ色の瞳に近づいた。
「煙草! 入ってなかった! 空箱渡したろ!!」
サマリスの目の前に突き出されているのは空箱だった。あの時彼がサウサミーケに渡したものだ。いつの間にか魔法を解除したらしかった。
「あ、いや、それは……えっと……」
「騙した! サウサミーケは中にタバコが入っていると思って頑張って開けたのに! ニフユも中にタバコが入ってないの知ってたんだ! 教えてくれなかった!」
わずかに涙目になりながら彼女がそう強く訴えた。確かにそうだ、あの箱は空っぽだった。だが、なぜ今そんな話をするのか。
サマリスの戦いは終わった。友人のサウサミーケが彼に馬乗りになっている。
貴族の四人兄弟が、がその光景をぽかんと眺めていた。
別れ路に二人がポツリと立っていた。もう追う者の姿はない。
このまま南へ行けばイビリア領へ戻れたし、北へと進めばシェーパース領を縦断して、大陸全土を回れる。
二人が立っているだけだった。
「……サミー、仕事ないだろ。雇ってやるよ」
サマリスがタバコを一本サウサミーケに渡しながら言う。彼女は受け取って、少しサマリスの方を見てから火をつけた。
サマリスの瞳には魔法陣が回っているし、サウサミーケのオレンジ色の瞳には爽やかな空が写っている。
足元には、小さな墓石が立っていた。震える文字で『フェイルグロンドより』と彫られている。供えるようにしてオレンジ色の小さな靴と、焼き菓子が置かれていた。
彼女が、長く伸びた襟足を風にまかせた。
二本の紫煙を風がさらっていく。
「サウサミーケは最強になる女だから、高いよ?」
「一日百五十ネルラ、一日三食おやつ付き、宿付きでどうだ?」
「前の人はそれ、ほとんど夢みたいなものだったけど?」
「そりゃ、随分嘘つきなやつに雇われてたんだな」
サマリスは楽しそうに返すが、サウサミーケの方は怪訝そうに彼を見つめていた。
楽しそうに笑う彼など初めて見たからだ。
サウサミーケが何故だか今まで来た道を振り返る。舗装の甘い、凸凹の道が遠くまで続いているだけだ。
「……魔法は教えてくれるの?」
「ようやっと使い魔を扱えるようになったんだ。ここでやめたらもったいないだろ?」
「確かに」
サマリスの言葉に頷く。
「一日三食おやつ付ねぇ……」
彼の提案を噛み締めるように呟くのはなぜか。
よく晴れた日であった。
「いいよ。その条件で雇われてあげる」
サウサミーケが微笑んだ。
「ニフユ共々、よろしく、サマリス」
「あぁ」
別れ路にふたりの姿はもうない。
風の噂で、ニーベの英雄像の再建が決まったと聞いた。
彼の英雄 八重土竜 @yaemogura
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