第40話

「サウサミーケの友人に、暴力を振るうのは許さない!」

「……!」


 軽やかな声が、逞しい元用心棒が、彼の目の前に立ちはだかる。その爽やかなオレンジ色が、何か懐かしいものを思い出させた。

 振り返りもしない。だが、サマリスは知っている。彼女の目に、魔法陣が回っていることを。

 食堂の扉を突き破って、廊下の端まで殴り飛ばされた肉の塊のような自分の兄が、ぐ……と唸り声を発しているのがわかる。サウサミーケならば、彼の柔らかな頭蓋を粉砕するのは簡単であったろう。ましてや、自分の本当の目玉を潰そうとしていた相手である。なのに、殺さなかった理由は何か。


「お前、立て。手加減はしたつもりだ。サウサミーケは最強だから、力を見誤ることはない」

「……ぐぅ」

「立て。サマリスはお前みたいに弱くないぞ。サウサミーケはお前に聞きたいことがある」

 

 顔を上げたエルリスの下顎からさらにニ本も歯がなくなっている。ボタボタと血が垂れ落ちる。彼の数メートル前に折取られた前歯が転がっていた。


「立て!!」


 サウサミーケが吠えるが、エルリスは立ち上がらない。いや、立ち上がれないのだろう。今まで痛みなど味わったことのない高尚な人間なのだ。ましてや、こんな幼い少女になぐられるような経験はなかったろう。

 魔法陣が回り踊り、せわしなく色を変える。


「立てと言っているんだ。たかが殴られただけで鼓膜でも破れたのか? 聞こえないのか。お前が苦しむのはこれからだ」


 足元の塵埃が地面から浮き始める。彼女の足を起点にして、教えてもいない形の魔法陣が出来上がり始めていた。あの形はヒルムセムトの魔法陣だ。本に書いてあったのを覚えていて、無意識に出しているのだろう。

 彼女の成長は著しいが、彼女を止められるのはこの場でただ一人、魔法に熟達しているサマリスだけだ。もう体はピクリとも動かないほど疲労していたが、サウサミーケを、小さな魔法使いを止めてやらなければならなかった。

 彼女の背中から発せられる殺意が、これからの惨劇を予想させる。

 彼らにはそんな価値もない。


「おい!」


 サウサミーケがさらに大きな声を上げた。

 顔がテーブルの方を向く。動きがぎこちないようにも思えた。


「そこに隠れているお前たちもだ! なぜ隠れる? お前たちも何か背負っているものがあるんだな」


 テーブルクロスがバサバサと揺れた。だらしなく太ったサマリスの残りの兄達が顔を出す。どの顔も青ざめ、震えていた。

 サウサミーケがようやくサマリスの方を向く。

 瞳の中の魔法陣は思っていたよりも落ち着いていた。気持ちを反映するように作っていたのだが、彼女と交換したせいでそれも壊れてしまったのだろうか。ありうる。彼女はサマリスの腹にあった魔法陣だって書き換えたのだから。


「サマリス」

「……なんだ、サミー」

「あなたのお兄さん達に、言うことはないの? これが最後かも知れない」

「俺はあいつらのこと兄弟だと思ってねぇ。どうだ? 似ているか? あれは貴族だ。俺はサミーのただの友達だ」


 サマリスが思っていたより声は震えていなかった。最強の友人が助けに来てくれたせいに決まっている。サウサミーケの方も、思っていたより落ち着いている。十二歳の子供だと思っていたが、本人が主張するように、成人した立派な大人なのかもしれなかった。

 サウサミーケが薄く笑う。髪の毛と、顔にべったりついた血液がなければ、本当に最高の笑顔であったし、ただの少女のようであるのに。それだけが惜しいところだった。

 サウサミーケが大きく息を吸った。

 勝利を確信した英雄のように歩き出す。魔法陣の数は増えていくばかりであった。


「サウサミーケは、最強だ。それで、サマリスはサウサミーケの友人だ。サウサミーケのことをサミーと呼ぶ。これは、サウサミーケの家族しか呼ばない呼び方だ。サウサミーケの家族ではないけれど、もうひとりサミーと呼ぶ者がいるね、まあ、これは置いておくにしてもだ」


 彼女の動く影が震えるように動いた。ニフユはいつの間にか彼女のもとに帰ってきているらしかった。彼女の傍が自分の本当の居場所とでも言い出しそうだ。だが、それが使い魔の本来の姿だ。

 ジェニスのことが思い出された。

 殺したのは、もちろんサマリスだ。

 オレンジ色の長い襟足が左右に揺れる。尻尾のようだった。


「お前たちは、サマリスを殴ったな、いじめたな。彼の、純粋な目を取り上げたな。彼に呪いを刻み込んだ。居もしない場所に縛り付けたんだ。呪いというのは難しい。その実、その人のことを大切に思っていなきゃいけないからね。でも、あなたたちは大切にも思ってないのに、サマリスに呪いをかけたんだ」


 サウサミーケの言葉に、四男のジルリスが声を上げた。この男は狡猾な男だった。


「……違う。俺たちはサマリスを、弟を大切に思っていた。本当だ。信じてくれ」

「信じるなんて言葉、使わないほうがいい。そんなもの嘘と一緒だ」

「……なら、何を言えば信じてもらえるんだ。弟が可愛くない兄なんているはずないだろ?」


 サウサミーケは愚かである。そして、まだ年端の行かない子供であった。テーブルマナーを知らなければ、正しい世渡りだって知らない。彼女にあるのは、拳と、力と、友人だけだ。買ったばかりの愛しのカンテラは割れた。

 恐れずに彼女の膝下に巨漢が縋る。離れたところから見ているサマリスには何か、力のない魔物が彼女に取り入ろうとしている様にしか見えない。

 サウサミーケは最強であり、そんなものには負けはしない。誰の目にも明白だった。

 彼女の瞳の中で一定の間隔で魔法陣が組み変わり続けている。


「自分の子供を愛せない母親がいる。自分の弟を愛せない兄だっていてもおかしくない。傷つけることを愛していると勘違いしているなら、それはおかしい。傷つけるということは、何にもならないから」

「――傷つけたかったんじゃないんだ。ただ、力の加減がわからなくて……」


 昔のサマリスと同じ色の、薄い茶色の入った青い瞳がサウサミーケを見上げる。しかし、彼女が今まで見ていたのはただの魔法陣の瞳だ。

 ジルリスの肉厚のまぶたに埋もれそうになった瞳の中に魔法陣のかけらが写りこんでいる。

 男に触られているのをよく思っていないのか、陰に隠れるニフユがゆらりゆらりと揺れていた。踊りを踊るようである。


「わかった」


 サウサミーケがジルリスの頭にそっと手をやる。


「ごめんな。サウサミーケも弱い人を触ったことがないから、力加減がわからないんだ」


 男がひとり床の中に沈められた。頭蓋骨が耳のあたりまで石の床に埋まっている。辛うじて生きてはいるらしく、時折体が跳ねた。

 ジルリスの後ろで隠れるようにして成り行きを見守っていた次男と三男、リルリスとカルリスが情けない悲鳴を上げた。


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