第39話
全ての部屋は回った。やはり予想はあったが、あの男はサマリスの嫌う部屋に陣取っている。
この部屋にある、大きな暖炉が嫌いだった。この部屋でたくさんの辛い思いをしたのだ。胸が締め付けられるように痛んだが、それ程度ではサマリスは死なない。
扉の装飾の溝まで掃除が行き届いている。この扉に顔を叩きつけられたことがあるのを今更思い出した。
扉を開ける。片側一面の窓から、オレンジ色に染まりつつある陽光が注いでいた。顔が映るほど磨かれた床に、同じ色で統一された机と椅子。
件の暖炉の前に、大きなシルエットがあった。相変わらず太っている。お前を何度夢に見たことか、とサマリスは思った。
「よぉ、サミー」
エルリスだ。サマリスの一番上の兄である。彼の瞳を魔法陣にした張本人であった。
青くわずかに濁った瞳が、サマリスのオレンジ色の瞳を覗き込む。
彼は、子供の頃転んで上顎前歯をニ本なくしている。歯を見せて笑うその中に、舌が蠢いているのがよく見えた。
「元気そうだなぁ……」
ボロボロの体はもうほとんど言うことを聞かない。彼の魔力も底をつき始めていた。治っていない傷が多すぎる。痛みで動けなくなっているサマリスの上に巨体が乗った。重さに肺が押しつぶされて、呼吸もままならない。
サマリスは命の危機に貧していたが、体を守ることよりも先に借り物の目玉を守ろうという意思があった。
これはサマリスのものではなく、サウサミーケのものだ。まだ十二歳の彼女の両目を潰すことなど、彼にできるはずがない。
「いいもん持ってんじゃねーか。魔法陣のあれはどうしたんだよ」
「……」
「なぁ?」
「……」
「とうとう口まで聞けなくなったかよ。飯も食えないサマリスちゃんよ」
肉でもたついた拳がサマリスの顔を思い切り殴った。サウサミーケに殴られたものよりずっと痛くない。これくらい、サマリスにとってなんともなかった。
瞳を固く閉じたのは、サマリスなりの抵抗だった。この男に、サウサミーケのオレンジ色の瞳をやることはない。絶対に渡さないという意思があった。
金属の冷たい感触が、頬を走って行く。薄い、ほほの肉がえぐり取られた。サマリスは、耐えた。声も出さず、呼吸もしなかった。血が玉のようになって、首の方へと流れ落ちていく。この巨体にマウントを取られた状態で、動くという選択肢がないのもその原因だった。
サウサミーケの瞳が取られそうなら、行動に移す。それ以外は耐え切ると決めた。彼らを殺すよりずっと簡単なことだ。力のないサマリスに似合う行動だった。
「サマリス、そのオレンジ色のやつ、どこで手に入れたんだよ。俺にくれよ」
「嫌だ」
「俺たち兄弟だろ? な?」
「これは借り物だ。お前になんかやるものか」
「随分生意気じゃないか?」
首に、重さがかかった。首を絞められてもサマリスは死なない。心臓は動き続ける。
太い指がサマリスの細い首を締め上げる。ぎゅ、ぎゅ、と肌が絞られる。男の手から出た汗が滑るように首と手の間に溜まる。ミシミシと、首の骨が悲鳴を上げた。頭がぐらつくような感覚になる、目の前が赤く、チカチカと光った。胸のあたりが熱く苦しい。呼吸を行おうと、体がびくついた。毛足の短い絨毯を掻き毟る。爪が剥がれた。
上に乗る男がニンマリと笑う。サマリスは今どんな顔をしているだろうか。視界は真っ赤である。
音と痛みが遠のいていく。しっかりと名が呼ばれたのが聞こえる。男が、さらに首に体重をかけた。
ばきん、と骨が折れるような、曲がるような、複雑な音がした。初めは目を瞑る自分から発された音かと思ったが、どうやら違ったらしい。身構える痛みは一向に来なかった。腹の上に乗っていた暴力的な重さから解放される。
恐る恐る目を開けると、魔法陣の線が入っていない視界が広がっている。その先には、オレンジ色の頭をした少女がふらりと立っていた。
わずかに焦げたのか、毛先の茶色くなった襟足が、風もないのに揺れていた。
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