第37話

 頬を力強く叩かれた。柔らかなものではなく、ひっかくような感触があって、サマリスが目を開ける。頬が擦ったようにヒリヒリと傷んだ。すぐにその痛みもなくなる。


「起きろよ」


 目の前には、見慣れた使い魔がいる。


「……サミーは?」

「俺様とお前を置いて行っちまったよ。多分まだ最強だ」


 遠くで小さな雄叫びが聞こえた。


「サミーに何かあったらお前のせいだ」


 覗くような瞳が、サマリスをぎろりと睨んでいた。彼はまだ許せないでいるのだ。


「お前は行ってやらなくていいのか?」

「来るなって言われたし、お前のこと頼むっていう命令されちゃったしで……俺様もどうしていいかわかんねーんだよ」


 表情がないはずなのに、悲痛な声は届く。ただそこに立っているだけであるのに少しでも可哀想だという気持ちすら湧き上がる。

 サマリスが髪の毛をかきあげた。、


「サミーのところに戻りてぇ」

「行けよ」

「行けない」


 ニフユが首を横に振る。


「サミーは最強だから、俺様より強いから、行けないんだ」


 思っていたより、その精神はしっかりしているらしい。サマリスは息をゆっくり吐くだけだ。線の走っていない瞳にまだなれない。


「あんな土人形、絶対壊して帰ってくる」


 ニフユが何かを吹っ切る。そんな音が聞こえた。


「行こうぜ、行かなきゃ」


 ニフユの目玉だらけの腕がサマリスを立たせた。

 サマリスが歩きだしたのは屋敷とは全く逆の方向だった。苛立つようにサマリスの腕を黒い髪の毛がからめ取る。黒い瞳の大半がサマリスを睨みつけた。


「お前、サミーをおいていくのか?」

「違う。サミーの手伝いをする」

「へっぽこが、何言ってんだ。お前なんかあいつらの爪楊枝になって終わりだ」


 ニフユが悪意と敵意を示している。彼らの間にはまだ固執があった。凝り固まって、もうきっと解けることはない。

 サマリスが答えた。


「違う。サミーは力を持っている。俺は何を持っているか、考えるんだ。俺は、あいつより長生きしてる。魔法の知識は持ってるんだ」


 サウサミーケと交換したオレンジ色の瞳がきらりと光った。


「ニフユ、悲鳴を聞いたか?」

「なんの? サミーのか?」

「違う。男のだ。この林の中に戦闘用魔導生命に魔力を送っている魔法使いがいるはずだ」

「それ本当か?」

「ああ」


 サマリスがしっかりと頷いた。線の入っていない瞳が林の黒い木々を見つめている。遠くから戦闘の音が響いてくる。なるべく早く方を付ける必要があった。サウサミーケは重症だ。


「あれは元俺の戦闘用魔導生命だ。魔力を注入し続ける限り動き続ける。初めは、屋敷にいるあいつらがやっているのかと思ったが、どうやら違う。サウサミーケが一体破壊した時に悲鳴があったな。あれは注入していた魔力の行き場がなくなって逆流したんだ。それの悲鳴だ」


 サマリスが睨むように木々をもう一度見る。


「魔法使いがこの林の中にいる」


 ニフユが鼻で笑った。


「サマリス、人探しなら得意だぜ、俺様」


 髪の毛が地面に伸びる。成長する根のように、獲物を狩る蛇のように動いて、何かを探し始める。その時少し離れたところで悲鳴が上がった。

 ふたりが走り出す。

 草を踏み分けた先に男が情けなく転がっていた。歳はサマリスと同じか少し上か。今まさにニフユの髪の毛をナイフで切り落とそうとしていたところだった。


「お前があの戦闘用魔導生命を操っているのか?」

「……そ、そうだ! お、お前……サマリスだろ?」


 サマリスより貧相な体というわけではなかったが、どうやら気は小さいらしい。ニフユを見て、怯えたように声が震えていた。


「べ、別に何をしているんじゃないんだ、使い魔を引っ込めろよ……」

「これは俺の使い魔じゃない」


 ナイフで切り取ろうとする端からニフユが彼の足に絡む髪の毛を量を増やす。意地悪なヤツだった。手元は半ばパニックになりながら、サマリスを見上げていた。

 気の弱そうな薄い緑色の瞳が見上げてくる。


「あんた、不死身なんだってな」

「……何の話だ?」

「俺の知っている限り、傷を治す魔法っていうのはたった一つだ」


 男がにやりと笑って、手の甲を見せた。魔法陣が回っている。サマリスの足元にも同じ魔法陣が浮かんだ。

 特定の魔法陣を壊すタイプの魔法陣だ。


「なっ……」


 サマリスがわずかにたじろぐ。

 ニフユは黙って見つめているだけだった。

 地面が光る。同時にサマリスの体を魔法の攻撃が貫いた。悲鳴も、呻きも上げない。サマリスが地面に血をまき散らしながら膝をつく。

 ニフユの髪の毛を切った男が立ち上がる。勝ち誇っていた。


「馬鹿だなぁ。魔法に頼るから、そんなことになる」

「……」

「死んでないよな? エルリス様達に殺すなと言われているんだ。おもちゃにされるのもさぞ大変だろうな」

「……本当にな」


 青草が紅葉でもしたのかと思うほど、真っ赤に色付いている。サマリスに血液は付着しているが、もう傷は存在しない。オレンジ色の威光だ。胸の中でいびつな形の魔法陣が薄くオレンジ色の光を放っていた。


「……どうして」

「これはもう、誰も知らない魔法陣だ。サミーの作った命だよ」


 サマリスが言う。血液に濡れた衣服が彼の体に張り付く。さながら亡者だ。もう死んでいると言われても誰も疑わない。窪んだ眼窩の下にオレンジ色の瞳が光っていた。


「潰れろ」


 低く魔法が放たれる。唸り声も上げず、敵は倒れた。

 サマリスがニフユの方へ振り返る。


「俺は行く。お前はサミーのところに行け」

「……」

「どうせお前がいたところで、なにか起こるだろ。避けられないんだ」

「なんだよ、その言い草」


 今更食堂を逆流してきた血液を吐き出して、、サマリスがニフユを見返した。

「今更だから、言わせてもらうけどなニフユ。お前とジェニスじゃまず根本が違ったんだ。サミーは最強だぞ。そもそも守ろうって考えているのが間違いなんじゃないのか?」

「……」

「あいつはこれからずっと一人ぼっちだ。一番はたったの一人だからな。なら、お前が隣に立ってやったほうがいい」

「知ったような口を……」

「お前は使い魔で、俺は人間だ。そこの区別、はっきりしたほうがいい。絶対な」


 サマリスの持っているオレンジ色の瞳に見つめられるのも、ニフユは苦手だと思う。

 やせ細った男が屋敷の方へ足を進めた。ニフユは、戦いの音へと足を進める。


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