第32話

 その日の朝から、ジェニスの姿を一度も見ていなかった。遠くまで魔法陣の瞳を何度も何度も使いながら屋敷中を探し回った。行っていい場所と悪い場所はしっかりと教えてあったし、その指示を守れないほど愚かではないのも知っている。


「ジェニス! どこだ!」


 珍しく声を張り上げる。人気のない屋敷に声が残っていく。彼女の姿は見つからない。大きなオレンジ色の瞳が不安そうに揺れているのが予想できる。

 また曲がり角を曲がって


「ジェニス!」


 と声を上げる。見当たらない。

 どこに行ってしまったのか。

 心臓がドクリと鳴る。嫌な予感が全身を駆け巡った。未来を予知する魔法というものは存在しない。それがもどかしいよな、恨めしいようなそんな気持ちがした。

 自分の兄たちの姿も見当たらなかった。

 ジェニスと、兄たちの姿が重なる。さらに嫌な予感がした。

 長い廊下を曲がる。


「ジェニス! どこに行ったんだ! ジェニス!」


 声が上ずった。

 悲鳴のような声が聞こえた。

 白い廊下を走る。この先には食堂がある。西日の入る大きな窓がサマリスは大嫌いだった。

 大きな扉を押し開けると、太ましい体が四つあった。それの中心にジェニスがいる。その後ろには人が一人すっぽり入るような暖炉が口を開けて待っていた。元来白かったはずの壁は煤がこびりついて、黒く色がついていた。煤の模様が苦しむ人の顔に見える。

 まぶしい位の西日が入ってきていた。


「ジェニス!」

「よぉ、遅かったじゃんか、サミー」

「……エルリス、ジェニスから離れろ」

「だってよ、どうする?」


 忌々しい兄弟がジェニスを小突く。大きなオレンジ色の瞳が助けを求めるようにサマリスを見つめる。目の端がわずかに腫れていた。


「サミーが面白いおもちゃ持っているって言うからよ。ちょっと俺らも遊ばせてもらおうと思ってさ」

「使い魔はおもちゃじゃない。生き物だ」

「生き物なら食えんのか?」


 一人がゲラゲラと笑って、ジェニスの股の間に挟まっていた白いしっぽを引っ張り出して噛み付くふりをする。サマリスが目を見開いた。本当に珍しく大声を出す。こんなに大きな声が出るということを彼自身も忘れていた。


「やめろ!!」


 兄たちが肉に包まれた瞳をわずかに開く。


「お前、生意気だよ、サミー」

「うるさい、返せ。それは俺のだ」

「……サミー」


 怯えたような声が、サマリスを呼んだ。

 サマリスが慌てて駆け寄る。兄の大きな手を初めて叩き落とした。

 彼の顔が嫌そうに歪む。

 二人の背後には大きな暖炉だ。もう逃げ道はない。

 長男のエルリスがニンマリと笑った。


「まぁ、いいさね。今日の不死身人間の実験はこれだ」


 言葉が終わるか終わらないかのうちに、ビンに入った液体が投げつけられた。魔法陣の瞳がゆっくりとそれを捉える。机の上にはマッチだ。背中に冷たい汗が流れた。予感が、目の前で起ころうとしている。

 肌に張り巡らされた魔法陣は、傷が付いたら使い物にならなくなる。火傷などしたら死んでしまうに決まっている。

 魔法陣の世界にいるサマリスを現実へ動かしたのは、白い毛の生えた猫の手だった。


「サミー!!」


 わずかに黄色い油を燃えやすい毛が全てかぶった。すかさず火のついたマッチが投げ付けられる。オレンジ色の炎が、肌を焦がす熱さが、サマリスの瞳に映った。


「ジェニス!!」


 腹を抱えるような、汚い笑い声が聞こえる。胸を焦がす肉の匂いが肺いっぱいに満たされた。

 西日よりも強い明かりが踊るように動いている。体を掻き毟るように腕らしきものが蠢いた。血か、肉か、ぼとぼとと火のついた塊が地面に落ちる。言葉も出ない。

 呼吸がままならなかった。ジェニスもそうだ。小さく、控えめに名を呼ぶはずの口の中が焼けただれている。気道がジュウと音を立てていた。


「ジェニス! ジェニス!!」


 サマリスが駆け寄る。

 心臓が強く脈打った。明るい。彼女の強い残像が魔法の瞳に焼け付く。火を消そうと手を伸ばす。自分の腕が焼けた端から再生する。爪が焦げてパチンと音を立てた。

 炎の中で、大きな瞳と出会う。粘膜が焼け焦げ、溶け始めていた。


「ジェニス!」

「さ……みー……」


 髪の毛に火がつく。流石にそこまでは回復しないが、そんなこと気にも止まらなかった。熱い空気を吸い込んで粘膜が焼ける。すぐに回復する。ジェニスはもっと苦しいに決まっている。

 小さく口が動いていた。何を伝えたいのか、恨み言か、悲鳴か。彼女はサマリスの名しか口にできない。


「ジェニス……!」


 黒く焼けた毛が崩れ落ちる。もうほとんど動かない。もうもうと煙を立てて炭になっていく。生き物にはもう見えなかった。

 笑い声がひどかった。

 彼の使い魔は死んだ。





 サウサミーケが全てを聞いて頷いた。何も言わない。サマリスの下にある魔法陣がわずかに揺らめいた。

 オレンジ色の瞳が憂いを帯びてサマリスを見る。


「サマリスはオレンジ色が嫌い?」

「……いや」

「そう」


 瞬いた。わずかに輝いている。


「墓参り、するんでしょ?」

「ああ」

「それまで、サウサミーケは用心棒だ」

「……」


 サウサミーケがゆっくり息を吸った。


「昔話……」


 ひどく穏やかな声だった。


「サウサミーケが最強になりたいのは母さんのためだ。きっとそうだ」

「……なんだ、それ」

「おかしいだろ?」

「いや」


 サマリスが首をゆっくり横に振った。

 サウサミーケが薄く笑う。膝の上に乗っていた魔道書ごと抱え込んで、胎児のように体を丸める。そんな格好をしていればただの少女だ。たかが最強には見えない。


「おかしいって言って欲しいな」

「そうしたらどうするんだ?」

「自分のこと認められる。サウサミーケはすがってるんだよ、強さに」


 彼女の荷物はずっと離れて置いてある。まるで何も殺したくないと言っているようだ。彼女の言動に騙されていたが、彼女がすがるものを取り除いてしまったら、彼女は何者になるのか。おそらく十二歳のただの少女だ。サマリスの思い浮かべるような生活をしているに違いない。普通に学校に行き、友人を作り、笑う。


「生きるのが怖い」


 サマリスの言葉に、サウサミーケが薄く笑った。


「生きている限り、サウサミーケは最強だ」

「そんなのみんな知ってるよ」

「サマリスは、生きるのが怖いのか」


 声音は当たり前のように、平坦だった。感情の起伏はない。彼女に怒りは存在しないのかもしれなかった。


「なのに、呪いにすがってしまうんだ」


 傷の多い手が、頬を撫でる。


「生きているからいいんだ。誰だって何かにすがる。諦めるしかない」


 噛み締めるような言葉だった。おおよそこんな子供が言う言葉ではない。いや、彼女は自分を成人していると言っている。ならば、ありえることだ。


「サウサミーケは強さにすがった。それしかないんだ」


 サマリスを見上げる瞳はわずかに揺らめく。助けを求める瞳のようにも見えた。

死を、人を殺したことを後悔しているようにも思う。彼女は今まで何人の、いくつの命を奪ってきたのか。


「生きてる。だから、死ぬ。ニフユだって死ぬんだろ? やつはそれを知ってた。じゃあ、サウサミーケはそれを知っているんだろうか?」


 知識を乞うような声だった。だが、そこにいるのは幼い大罪人と、浅はかな魔法使いだけだ。かわいそうに、答えるものはいない。あるいは、賢者の使い魔なら答えたかもしれなかった。

 だが、彼は眠りについている。

 ふたりの間に沈黙が落ちる。サウサミーケの瞳とサマリスの瞳が合わさった。

 男のほうが耐え切れなくなって口を開く。彼女の瞳は自分の使い魔を今でも思い出させる。


「そういえば、サウサミーケ。この魔法陣は――」

「ニフユが書き方は教えてくれた。形はサマリスのやつ見よう見まね」


 飄々と答えるそれに驚いて地面を見る。

 確かに少し歪である。だが、しっかりと光を放っていた。


「良く出来てるじゃないか」

「そう? ありがとう」

「この調子で慣れていけばすぐに使えるようになる」

「……タバコの箱が開くわけね」


 サウサミーケが頷きながら言う。まだあの箱を持っているらしい。そして、嘘にも気が付いていないということだ。視線がへたれ込んだ革袋に向いていた。

 男がわずかに視線を外しているのに気がついているだろうか。

 サマリスの視線に自分の胸に刻まれた魔法陣が映った。いつもと様子が違う。形が大きく変わっていた。魔法陣の瞳が大きく瞬く。


「さ、サウサミーケ……これ……」

「魔方陣って壊れると使い物にならなくなるんだろ? それも見よう見まねだけど、なかなかうまくできてると思うよ。傷をよけてくっつけたんだ」


 サウサミーケがなんともなしにそう言った。サマリスの胸で魔法陣がオレンジ色に輝いている。

 彼の瞳の中で混乱を表すように魔法陣が組み変わる。

 これは、サマリスが独自に編み出した魔法陣だ。なのに、どうして彼女が書き換えられたのか。そして、今も歪な魔法陣は問題なく動き続けている。目が回りそうだ。彼女の才能に飲み込まれていく。

 言葉を失うサマリスをサウサミーケが覗き込んだ。


「ちゃんとできなかったか? サマリス死ぬ?」

「……いや、平気だ。生きているから」

「そうだよね。治癒の魔法って便利だもん。心臓見えるくらいパックリ開いてたけど、やったらすぐ閉じたもん」

「……サウサミーケもやったらどうだ?」

「最強に不死身は必要ないから」


 そんなサウサミーケの呟きだった。

 彼女の手が魔道書を閉じる。


「明日からも、よろしく。サマリス。サウサミーケは絶対にあなたを送り届けるわ」


 サマリスには何故かその言葉が、悲しく聞こえた。二人の別れが迫っている。


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