第30話

 扉を開けると、暖かい風が吹き込んできた。サウサミーケの髪の毛が遊ばれて、サマリスの細い腕に触れる。オレンジ色の瞳が振り返っていた。


「サマリス、行こうか」

「あ、ああ」


そう言って、小さな体が雑踏の中に飛び出していくかと思えば、方向を変えて向かった先は、店と店の間にある細い路地だった。サウサミーケがそこを覗き込んでキョロキョロと見回す。何かを探しているふうだった。


「……サウサミーケ、何やってるんだ?」

「いや、この辺にいるはずなんだけど……」


 彼女が体を路地裏に入れる。サマリスもそれに倣う。路地裏に幼い少女の顔と、少し痩けた男の顔が覗き込む。日中にも関わらず、湿った空気が漂っている。路地の先の闇がわずかに揺らいだように見えた。

 サマリスが魔法陣の瞳を凝らす。

 闇が迫ってきていた。路地裏の闇が二人にどんどん迫ってきている。サウサミーケは涼しい顔をしている。


「さ、サウサミーケ……」


 男が小さく用心棒の名を呼んだが、用心棒は動かない。黒い影が陽光すら覆った。黒い影の中に切れ込みのような無数の瞳が浮かんでいた。

 眼前まで迫る。

 ただのニフユだった。


「ニフユ、なにか変わったことは?」

「ここの店のウェイトレスかなぁ? それなりに若いねーちゃんがさっき大急ぎで走っていったけど、それ以外は。あの森の殺し屋みたいなのもいなかったぜ」

「そう。それは良かった」


 ニフユが溶けていた黒い闇の中から、わずかに色の薄いサウサミーケの影の中に移動する。サウサミーケがそれを見ながらつぶやくように言った。


「これからもよろしくね」

「……お、おう?」


 ニフユは首をかしげるばかりである。

 サウサミーケが辺りを見回した。

 人ごみに紛れて二人が歩く。オレンジ色の髪の毛の少女と、フードをかぶった男だ。サマリスが荷物を背負い直した。

 二人の横を手をつないだ幼い兄弟が歩いていく。サマリスとサウサミーケはそうは見えないだろう。

 サウサミーケがポツリと口を開いた。


「サマリス、兄弟いるんでしょ?」

「サウサミーケもいるよな」

「そうだね」


 いい匂いのする揚げ菓子を売っている屋台の前を通り過ぎたが、サウサミーケは少し振り向いただけだった。


「サウサミーケは兄弟と仲いいんだってな」

「うん。悪くはないだろうね」


 サマリスの表情は見えないが、予想はつく。彼女はなぜこんな話を始めるのか。


「俺はさ、奴らのこと嫌いだ」

「知ってるよ」

「……」

「……でも、自分のことはもっと嫌い?」


 サウサミーケがわずかにサマリスを見上げた。

 サマリスは黙ったままだ。

 前から歩いてくる帽子をかぶった男を避けようとした時だった。


「サマリス!」


 体が横に吹き飛ばされた。それに伴い、今度は胸に破けるような痛みがあった。サウサミーケに力いっぱい押されたせいで、肋骨が潰れたのかと思ったが、それも様子が違う。胸に深々と突き刺さった短刀の柄が、真っ赤に染まっていた。

 着ていた服にじわっと血がにじんだ。胸のあたりから暖かい液体がどろりと流れ落ちていく。呼吸が苦しく、胸に詰まったものを吐き出そうと咳き込むと、口から血が溢れた。

 刺さった位置を確認する。用心棒が突き飛ばしたおかげで幸い心臓には刺さっていなかった。いつものように得物だけ抜いてしまえば傷は治る。

 体が異常に動きにくかった。どこか大きな血管を傷つけたか。そう思いながら、サマリスは地面に体をあずけた。

 甲高い悲鳴が聞こえる。痛いのはサマリスなのに、よく他人のために悲鳴などあげられるものだとサウサミーケが思う。

 彼女たちを中心に、人が割れていく。彼女の足元には倒れふしたサマリス。目の前にはあの時の赤い髪の毛の男だ。

 にやりと笑っていた。

 サウサミーケがランタンを地面に置いて彼を見返す。オレンジ色の瞳が爛々と輝いているだろう。

 彼女の雇い主が死んだというのに、サウサミーケは楽しそうだ。彼女の汚れた靴が、さらに血で汚れる。

 人並みが引いていく中で、軽やかな声がしゃべりだす。


「サマリスのこと殺したんだし、サウサミーケと勝負してよ」

「は?」

「勝負」


 サウサミーケが赤毛の男を見つめる。男が笑った。

 お互いに一歩ずつ引く。もう足元に死体があるのも気にならない。人の息も、心臓の動きも、ゆっくりと空気だけが張り詰め、向かい合う二人の肺の中を満たしていた。


「サウサミーケ・カベックだ。お前に決闘を申し込む!」


 足元には、動かないサマリス。だが、彼の手のひらの上で魔法陣が回り続けているのを、サウサミーケは知っていた。

 男がまた笑った。


「エジュ・ゼグルスだよ。その決闘、受けた」


 エジュが腰からナイフを抜いた。サウサミーケは素手のまま立っている。武器は携帯していなかった。

 ただ、足元から何かが湧き出る。

 ニフユが、すべての瞳を男の方へ向けていた。


「サミー、面白そうな事してるなよ。俺様も混ぜて」

「これはサウサミーケとあの人の決闘だ。ニフユは入れない」

「決闘ったって、ただの殺し合いだろ」


 エジュの拳が、サウサミーケの顔面に入る。幼い体が五メートルほど飛ばされて、壁に叩きつけられた。腕が何かに抵抗をするようにぴくりと動いたが、そのまま壁に寄りかかって、伏した。

 遠くで獣の咆哮が聞こえる。

 黒い毛が渦巻くように動き始めていた。

 主人を守ろうとする使い魔の働きは目を見張るものがある。

 サマリスはそれを知っている。例え、自分が死んでも、と思うほどのものがそこにはあるらしい。


「良くも、サミーを殴ったな……」


 サマリスと彼女の血の海と、瓦礫の中に倒れ伏しているサウサミーケを背後に庇い、ニフユが男を睨んだ。無数の瞳の全てが彼に向けられている。

 黒い毛が、鋼の槍のように集まった。獣の如き速さで、エジュの眼前へと迫る。

 すんでのところで避けた彼が、バランスを崩す。ニフユの瞳たちは見開かれていた。


「殺す!!」

「ニフユ!」


 サウサミーケの拳がなぜかニフユに振り下ろされた。ドン、と鈍い音を立ててニフユが地面に倒れる。

 先程まで倒れふしていたサウサミーケはどこに行ったのか、鼻血を袖でぐいっと拭って、なんともなさそうにそこに佇んでいた。反対に、ニフユが地面に伏している。

 サウサミーケの瞳が濡れた光を見せていた。


「それはサウサミーケのだ。お前は手出ししちゃいけない」

「……殴ること無いだろぉ?」

「お前じゃ一発で殺すだろ」


 刺された胸が痛い。サマリスはそう思う。地面に転がされたまま、彼女たちより一歩遠いところで情景を眺めていた。薄い膜がかかったように会話がぼやけている。

 切っ先はわずかに彼の急所から外れていた。サウサミーケが彼を押したからだった。ただ、出血がひどかった。目を動かすのも億劫なくらい、体が重い。湿った石畳が彼の体温を奪っていく。ただ、心臓だけが規則正しく動き続けていた。誰かが胸に刺さったナイフを抜かない限り、サマリスの傷はふさがらない。

 一方で、二人の戦いは白熱していく。エジュがにんまりと笑った。血のように赤い髪の毛が揺れた。

 突き出されたナイフが翻る。サウサミーケの鼻先まで迫る。大人の男と子供の女。腕の長さや、体の大きさでどちらが不利かは明白だ。それでも、どちらが推されているのかわからないほどの覇気がそこにあった。

 サウサミーケが短く息を吐き出す。強く握られた拳を突き出せば、火の粉のような光の粉が散った。橙色の光だった。前に拳を出した動作のまま、宙返りをしてエジュに迫る。男が急いで躱した。サウサミーケの予備動作なしに繰り出される拳が危険なのを知っているのだ。

 お互いに一度戦いをしている。お互いに熟達した腕を持っているのを知っている。

 サウサミーケの鋭い拳は、骨すらも砕く。エジュの練られた体術は、一振で命をさらう。

 一進一退だ。

 ニフユが手を出せる暇などなかった。

 サウサミーケのオレンジ色の瞳が煌く。小さな体が、ひらひらと辺りを飛んだ。足音も聞こえないほど軽く、早い。

 その瞬間、小さな拳がエジュの顔面を捉えた。

 唸る声が聞こえる。そのまま今度は汚れた足が、体を捉える。足についた血が飛び散った。

 再びお互いの距離が取られる。風が吹き抜けていった。

 エジュが脇腹を押さえる。顔から垂れる血は拭わないらしい。

 彼が足元にあったサウサミーケのランタンを蹴り上げる。無残にもガラスが割れた音がする。彼女の眉が少しだけ上がった。

 足元にガラス片が転がる。

 わずかに呼吸を混ぜて軽やかな声が問うた。


「お前、家族は?」

「はぁ?」

「家族はいないのか? 子供、とか」

「馬鹿かよ。いるわけないじゃん」

「……よかった、安心した」


 サウサミーケは笑わなかった。


「心置きなく、殺せるよ」


 横に一閃、銀色の筋が見えた。サウサミーケの手にはガラス片が握られている。目にも止まらぬ早さ。

 エジュが目を見開いて固まる。断末魔などを想像していたサマリスが馬鹿らしかった。今までだって、自分が暴力にさらされてそんなものあげたことはないはずだ。

 勝負はついていた。

 サウサミーケが血で濡れた髪の毛を掻き上げる。

 辺りを見回してポツリとつぶやいた。


「あれ? サマリス生きてる?」


 サマリスの息は細く弱い。地面は誰の血液か、真っ赤な水たまりが広がり続けていた。

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