第24話
夢だとわかった。
ぼんやりと体が浮いたような感覚があったからだ。背中に熱湯をかけられ、意識が朦朧とした瞬間に似ていた。目線が勝手に動く。見渡さなくてもわかった。自分が育ったあの屋敷だ。何度血を流したかわからない赤い絨毯が見えた。
自分の目の前を使用人の女が歩いて過ぎていったが、自分には目も向けなかった。ずいぶん前に自分に優しくしてくれた使用人は兄達の嫌がらせによって辞めさせられたあとだったようだ。
自分が歩き出す音がする。自室に向かっているらしい。流れ込んでくる音も、繰り返される光景も錆びたようにわずかに遠くに感じる。これが夢だからだった。
ふと視界に自分の手が映る。大きな傷がついていた。ナイフで切られたのか、ガラスでも握らされたのか、そんな細かいことは覚えていないが、確かなことはその部分に今は魔法陣が入っているはずだった。サマリスが気に入っている汎用性の高い魔法陣だ。これを作ったのは屋敷を出ることになる直前だ。どうやら、まだ夢の中の自分は子供であるようだった。
わずかに体液が滲み出ている瘡蓋が痛々しい。まだ、傷が回復する魔法陣を施していない頃の話のようだった。これは自分の記憶か、それともうすらぼんやりとした、形のない夢か。
瘡蓋の端が無理やりはがされたような形になっている。兄にいじめられたらしい。
その手に、小さな手が重なった。
嫌な予感がした。
サマリスは顔を上げたくない。今は見たくない瞳だった。これはまだ、幼い、自分が「サミー」と嫌な愛称で呼ばれていた頃の記憶だ。自分の手に重なる、白い毛に覆われた手を覚えていた。
「ジェニス」
と幼い頃の自分が名を呼ぶ。まだ、声変わりのしていない、軽い声だった。
目の前には喋らない使い魔が立っている。彼が幼い頃に契約をした使い魔だった。今はもう跡形もない。
オレンジ色の大きな瞳がサマリスの顔を映していた。この頃から、血色の悪い、痩せこけた子供だったのだな、と思う。今の自分とちっとも変わりはしていない。記憶の中のジェニスも変わりはしていなかった。
もしかすると、あのオレンジ色の髪の少女の影響があるかもしれないと、そうであればいいと願っていたのかもしれない。サマリスにはわからない。今更こんなものを見せられて何になるのかと叫び出したかった。夢の中だ。体は言うことを聞かない。
呪いが、彼をつなぎ止めている。
幼い自分が喋る。そして笑った。
「ジェニス、心配しているのか? 大丈夫だ、俺は。別に死んだわけじゃないし、死なないし。な? だから、部屋に帰ろう。ここにいいたら何されるかわからない」
鏡のようになっている瞳がサマリスをじいっと見つめて、それから彼の手を取って歩き出す。オレンジ色の鏡に映っていたのは、かわいそうに、笑い方もわからないような少年だった。
背中を向けているのはジェニスという彼の使い魔だ。オレンジ色の大きな一つの目を持った、二足歩行の猫のような使い魔である。魔法を拠り所にしてしまったサマリスの失敗とも言える。だが、幼い頃それに気が付けるすべはなかった。
ジェニスはサマリスの呪いであり、サマリスはジェニスの呪いだった。
使い魔としては力は下の方だ。知能も少なく、しゃべる言葉は「サミー」の一言だけだった。しかし、サマリスはそれで良いと思っていたし、初めて出来た友達のような気で彼女に接していた。可愛がっていたといって間違いはない。
目の前で真っ白なしっぽが揺れている。
「サミー」
「どうした? ジェニス」
「……」
ジェニスの大きな瞳の先には、一冊の本が置かれている。サマリスの魔道書だ。その先にもポツリポツリと投げ捨てるように本が転がされている。まだ些細な嫌がらせだ。
「ジェニス。もしよかったら拾うの手伝ってくれるか? この分だと部屋も荒らされているかもな」
彼女が頷いて本を拾い上げた。二人が時折屈んで本を拾っていく。ジェニスは丁寧に本についた埃まで叩いて落としていた。
「そんなに丁寧にしなくたって平気だ、ジェニス。どうせまた汚されるんだから」
「サミー」
「今度は壊れない魔法じゃなくて、汚れない魔法もかけようか」
そう言ってサマリスがぎこちなく笑う。本のページの端に小さく魔法陣が書き記されている。これがなかったら、彼の兄たちはこの本をビリビリに破いてただの紙くずに変えているはずだ。サマリスが施した魔法陣だった。
お互いに山のような本を持って部屋に入る。サマリスが器用にも足で扉を開けたのを見て、ジェニスが笑うように目を細めていた。
部屋の中はひどい有様だ。棚は引き倒され、花瓶は割られている。彼の気に入っていた絵画ですらずたずたに引き裂かれていた。
「これは酷いな。掃除が大変だ」
ジェニスが目を丸くしている。少年はそれを横目で見ただけだ。
「とりあえず片付けよう。これじゃ寝れないし。ジェニス、そこの綺麗なところの床に本を置いて」
サマリスの指示に従い、ジェニスが本を置く。小さく首が傾げられていた。
大きく床の上に寝転がっている本棚を起こしてサマリスが顔を上げた。足元で何かを踏んだ音がする。どうやら気に入っていた神様を象った置物を踏み壊してしまったらしい。繊細な青いガラスでできた美しい像であったはずだ。
「ジェニス! 棚に荷物を戻すのを手伝って。ジェニス!」
「……サミー」
声が細くサマリスを呼んだ。鈴の転がるような声だ。
「ジェニス、どうかしたか? こっち手伝ってくれよ」
「サミー……」
「ジェニス……どうしたんだ?」
サマリスが彼女の方を振り返れば、呆然としている大きな瞳があった。床には血が広がっている。真っ赤に濡れた毛の隙間から割れた花瓶の破片が見えた。
「ジ、ジェニス!」
サマリスが慌てる。ジェニスの知能は高くない。よく見積もっても三歳の子供程度だ。サマリスはガラスの破片が危ないというのを伝えるのを忘れていた。
それがジェニスが初めて流した血だった。
「ジェニス、大丈夫か?」
「……サミー」
どうやら手の平からの出血はそれほど無いようだった。足元が血で濡れているのは裸足のままガラスの上を歩いていたかららしい。大方、痛みに驚いて足の裏に刺さったガラスを握ってしまったのだろう。
「ジェニス、大丈夫だ。少し切っただけだよ、魔法ですぐ治る。すぐに痛くなくなる」
小さな子供が、小さな子供に言い聞かせるように囁く。わずかに潤んでいた大きな一つの瞳がサマリスのことを見上げていた。
サマリスは彼女に靴を買ってやることにする。彼女の瞳と同じ色の、オレンジ色のかっこいいやつがいい。きっと彼女に似合うはずだ。
「サミー」
と名を呼ばれた。
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