第2話

 場末の汚い酒場だった。床には吸殻やら、紙ゴミなどが散乱している。それの間をねずみがすり抜けていった。

 男が一人、隅の席に座っている。手元には読めない文字と意味の分からない図形が乱雑に書かれている手帳がある。魔法の言葉が書き記されていた。

 フードの隙間から、わずかにブロンドの髪の毛が覗いている。

 座る男からずっと遠いところでバキバキ、と何かが折れて捻じ切れる音がした。周りに居た者たちは音に反応してそちらを振り向くが、フードの男は動かずじっとしていた。

 空を切って、真ん中でへし折れた木の棒が飛んでくる。フードの男に当たる直前で石の床に落ちてカランカランと小気味の良い音を立てた。棒の端が男の足に当たった。

 木の棒の次に空を切って飛んできたのは体格のいい男だった。フードの男よりもだいぶ離れたところで、二つも机を巻き込んで落ちた。泡を吹き、白目をむいて気絶している。腹にはくっきり拳の跡があったが、どうやら絶命だけはしていないようだった。

 先ほどの何かが折れる音は木の棒だったのか、この男の骨だったのか。

 フードの男が狭い視界の中にようやくその惨状を収めて、体格の良い男の飛んできた方へと目を向けた。

 まさか、と思う。

 フードの影の中で、ひとりでに淡く光る瞳が二度瞬きした。

 出入り口に、小さくポツリと少女が佇んでいた。手には残り半分になった木の棒。その長さが少女にはちょうど良い。

 オレンジ色の長い襟足が尻尾のように揺れていた。

 ぎょっと目を剥いた用心棒の男たちがその少女へと寄っていく。どれもこれも筋骨隆々な男たちであったが、数秒後には盛大に吹き飛ばされていた。まさか、あの細身の小さな少女がやったわけがないだろう。フードの男はそう思いたかった。

 少女が拳を突き出し、足を振り上げる。その度に、後ろを軌跡を描くように光の筋が追いかけていく。

 何人もが目にしたことだろう。

 男が、体を少し動かした。今までのような緩慢な流れに任せたものではなく、確実な思いがあってのことだった。

 男はその光に見覚えがあった。

 小さな体の少女に難なく吹き飛ばされる大男たちを見て、酒の力も借りて上機嫌な者たちが色めき立つ。雄叫びがじわじわと室内に広がって行き、臭いような、生暖かな熱気がぶわっと生まれた。

 その後は、言わずもがなである。

 怒声と、罵声と、暴力と、悲鳴と、それの中に身をおいて、今もなお男は黙って座ったままだった。

 力の弱そうな魔法使いが、吹き飛ばされて転がってきた。

 交わる拳をかいくぐって、少女がズンズンと室内に入り込んでくる。小さな英雄のような出で立ちに、男はそれから目を離すことができなかった。彼女が目指しているのは依頼の貼ってある掲示板だろう。オレンジ色の瞳はそれを捉えて離さなかった。

 物色は始まっているらしい。

 時折、なんの趣味なのか、明確な意図を持って彼女を標的にするものがあったが、それすらも顔色を変えずに打ちのめしていった。

 爆発的な威力を持ったその小さな拳が、襲いかかる膝を、腹を、背中を捉えている。

 とうとう男の横さえも過ぎ去る時、男はその少女と目が合ってしまったような気がして大急ぎで目を伏せた。

 合うはずがないのだ、眼とすら呼べないその目が、まっすぐな瞳と。

 少女は一瞬男の方に目を向けたが、不思議そうに首を傾げると再び歩き出してしまった。

 掲示板の前まで来て、喧騒を背に佇んでいる。二、三度首をかしげた後に、掲示板の近くに倒れていた酔いどれに


「おい、ここの掲示板の仕事はこれだけか?」


 と短く聞いた。

 酔いどれは、さすが酔いどれである。少女相手に赤ん坊のように難語を話したあと、そのままゆっくりと目をつむった。

 少女が呆れた顔で「ダメだな、こりゃ」とつぶやいたのだった。

 もう一度掲示板を見上げて、それから彼女はもう興味のないものかのように背を向けた。

 そのまま歩き出すのを止めようとでも思ったのか、男が立ち上がろうとした時だった。

 少女が近場にあった椅子を蹴り上げた。それだけなのに、椅子が砕ける。破片が男に降った。

 今までの喧騒が一瞬にして終わる。

 彼女の語りは、実に立派なものだった。


「仕事を探している! 実力はある。自惚れじゃない。このサウサミーケを雇うものはないか!」


 幼い少女とは思えない朗々とした喋りだった。軽やかな、不思議な声である。

 あたりがそれを聞いてざわつくも、名乗り出る勇者はいない。

 この店の用心棒たちは皆潰れて地に伏しているにも関わらず、店の主人でさえも名乗りを上げなかった。

 無数の瞳が、彼女に向けられている。

 それを見て、オレンジの瞳が一度瞬いた。


「わかった」


 呆れたように首が振られた。

 まるで一段高いところから降りるようなその雰囲気に、誰もが飲まれていたことだろう。

 とうとう誰も彼女を雇わなかった。

 去り際、男はサウサミーケと目があった気がした。

 太陽のように明るいくせに、薄ら寒くなるような色をはらんでいる。




 そうだ、あの時の少女である。あの、恐ろしく強い、オレンジの冷ややかな目をした、軽やかな声の少女である。

 なぜこんなところで出会わなければならないのか。

 サウサミーケが、二度も瞬きをした。男の方は放心状態なのに。


「あんたもあの酒場にいただろ? フードかぶってた」


 彼女が指さす先には彼の荷物が投げておいてあった。なぜか全てが目も当てられないほどに血だらけになっている。

 その惨状の意味を、サマリスは知っていた。


「……そ、それで、えーっと」

「サウサミーケだよ、おじさん」

「さ、サウサミーケはなぜここに? というか、俺はなんでお前といるんだ?」


 男の質問に彼女が首をかしげた。オレンジ色の瞳が男の目を覗き込んで、それからそばに控えているニフユと呼ばれた自称使い魔の方へ向く。


「お前、自分が血だらけで倒れていた理由、覚えていないの? それとも、頭に重傷を負っていたから、全部忘れてしまったの?」

「……血だらけで?」

「そうだよ」


 事実を確認するようにサウサミーケの方へ向けば、彼女は不思議そうにしながら何度も頷いたのだ。

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