彼の英雄

八重土竜

第1話

 すごく悪い夢を見ている。直ぐにわかった。

 滅多なことがなければ、普通に生きている人間が花瓶で頭を叩き割られるようなことは起きないのだ。

 そうして、これはその滅多なことが彼の身に起こったときの記憶だろう。

 底まで綺麗に磨かれた花瓶が、彼の頭上に振り下ろされていた。彼は床にへたりこんでそれを見上げている。花瓶の後ろに、太ってパンパンに張った頬を押し上げて嬉しそうに笑う長兄の姿がある。長い廊下の先に、残り三人の姿もあった。彼の特殊にならざるを得なかった瞳が、普通は見えない彼らの表情も見せていた。

 笑みだ。

 彼はさすがに覚悟を決めている。その時ばかりは死を思った。

 薄く緑に光る目玉がキラキラと光っている。

 花瓶の底がちょうど脳天に当たった。

 痛みより先に、重さと衝撃が、背骨やら、腰やら、腕やらに響く。痺れるように痛みが広がって、重さを増すために入れてあったのであろう水が、彼に降りかかった。

 悶絶、絶叫。

 臙脂色の絨毯が濡れて色を変えている。一際赤いのは自らの血液か。

 割れた花瓶のかけらが頭に突き刺さっている。

 それほどまでに強く、重く、振り落とされたのだ。

 壊れたような笑い声と、駆け寄ってくる三つの足音。

 彼が八歳の時の記憶であった。

 痛みのせいで呼吸がままならなくなってくるのまで、記憶ソックリだ。なぜ、夢にまでこんなことを体験しなくちゃならないのか。

 力なく倒れ付している自分に向かって、「まだ死ぬなよ」と肉のついてまるまるとした手が四つも近づいた。対照的に、掴まれた彼は皮と骨のようである。

 まだ死んでやるものか、と思った。




 遠く意識の先に、わずかに人の話声が聞こえた。

 糊で付けられたのかと思うほど、目を開けるのに時間がかかった。目に入ってきたのは木々の天井だ。

 湿った、土と草の匂いもする。

 おそらく森の中か。

 彼はなぜそんな所に居り、悪い夢を見ていたのか。

 枝の隙間から月の光が束になって落ちてきていた。

 寝ていたせいなのか、眉間がズキズキと痛む。体が重だるかった。

 思考する。記憶を手繰ったが、やはり森に入った記憶がない。夜陰に紛れて次の街に向かう途中であった。人のいない街道を急いでいて、目の前に数人の男が飛び出してきてからの記憶がないままだった。

 彼はアドリのシェーパース領を目指していたはずだ。

 自分の身に何が起きて、そうして森の中にいるのか。混乱しているのは、このひどい頭痛のせいだろうか。

 なぜ、自分が森の中に身を横たえているのか。

 あたりを見回そうと首に力を入れるが、動かない。首だけではなく、全身が痺れたように動かなくなっていた。わずかにいうことを聞く右腕で額を触ると、包帯が丁寧に巻かれている。

もちろん巻いた記憶はない。怪我をした記憶もなかった。

 何事かを話す声がその時にぴたりと止んだ。よくよく聞けば、小さな少女の声のようであった。

 少女の声に続いたのは、男のしゃがれた低い声だった。


「おい、起きたみたいだぜ、サミー」

「だから、サウサミーケだと何度言えばわかるの?」


 サミーと呼ばれたその単語に、動かない体がびくりと反応したようだった。一気に心拍数が上がる。声音は記憶にあるものではないはずだった。

 首が傷んで声の方に向けないままである。

 野盗の類であるならば、金でもやって見逃してもらおうと男は思う。

 ゆったりした重さのある足音が、男の方へ近づいてきていた。

 腕になにかの毛が触れた。人間の毛というより、動物の毛のようだ。ゴワゴワとしていて硬い。

 野盗ではなく、猟師であればそれこそもっと良かった。

 わずかに目だけを動かして足音の方を見ると、すぐに目玉にかち合った。それも、一つではない。長い毛の隙間から無数の目玉が覗いている。真っ黒い肌に、切れ込みを入れたような瞳をしていた。白目と黒目の一つ一つが違う動きをしている。半分以上の視線が少女の声がした方を向いていた。

 なぜ男は相手を安易に人間と思い込んでしまったのか。喉が引き攣り、息が数回吐き出される。

 未だに体は言うことを聞かない状況だ。


「……魔物?」


 おろかにも、口をついて出たのはそんな役に立たない言葉だった。なぜ、魔法のひとつも放たなかったのか。

 しゃがれた声がゲラゲラと笑う。口は見当たらないが、確かに声は頭上から放たれていた。


「おもしれぇ、こいつ驚いてるぜ? 使い魔も見たことないのかよ、魔法使いのくせして」

「驚かしてはいけないよ、ニフユ。彼の体に障るだろう。怪我の具合もわからないんだから……」


 やはり年端の行かない少女の声だ。軽やかな、不思議な声をしている。

 少女の顔が、男の視界に入った。


「調子はどう? おじさん」


 オレンジ色の髪の毛とお揃いの大きな瞳をしていた。伸ばされた襟足が、肩口から流れ落ちてくる。焼けたのではない浅黒い肌の上にはいくつもいくつも傷跡が刻まれていた。

 顔は幼い印象を残すままであるが、差し出された腕は逞しい。襟口のボロボロになった汚いシャツが彼女の身を包んでいた。

 月夜の森にいるにはおかしい年齢だ。

 大きなオレンジ色の瞳が男を凝視している。その二つの瞳に見られると、何かを思い出す。確実に嫌な思い出だ。

 オレンジ色の髪の毛が揺れる。彼女が小刻みに揺れているせいだった。何か、言いたそうに口が動くが、はっきりとした言葉は発されない。そこがまた、男の嫌な記憶と繋がる。

 二言目には


「その目、やっぱり気味が悪いね」


 と包み隠さず言うあたり、やはり子供なのだ。

 変わらず、男の前に腕を差し出していたがこてん、と首をかしげて不思議そうにする。


「やっぱり、魔法使いっていうのはみんなそんな姿をしているの?」


 男の瞳の中で、魔法陣が組み変わってくるりと回った。

 オレンジ色の髪の毛に、浅黒い肌、軽やかな声、記憶のどこかで引っかかっている。この少女をどこかで見かけたような気がしていたのだ。

 場所が思い出せないままだ。

 少女はますます不思議そうな顔を男に向けた。


「ねえ、起きないの? それとも、まだ体が辛い? 申し訳ないけど、サウサミーケは他人に薬を買ってあげられるほど裕福ではないから……」

「サウサミーケ……」

「何?」


 かすれた声で名を呼ぶ。その名を聞いたことがあった。今日の昼間だ。


「……もしかして、お前昼間の酒場にいたか?」

「そうだよ、おじさん」


 少女はわずかに首をかしげながら返事をした。

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