第三話――公園での決戦

 翌日。肉体的にも精神的にも満身創痍だった堕天男ルシファーは、人生初の出社拒否を敢行した。

 むろんそんなことをしてタダで済むはずがない。

 病気などの〈正当な理由〉なく会社を休むことは、日本経済をいたずらに停滞させる社会悪として反逆罪が適用され、五十万円以下の罰金刑となる。

 だが、そうとわかっていても、どうしても足が動かないのだ。


 あんな人権蹂躙じゅうりん組織にこれ以上いたら、俺は発狂してしまう!

 罰金でも何でも取りたきゃ取ればいい。無いものは取れないのだから。

 しかし家に引きこもったりすれば今度はあの、猛毒母に殺されかねない。

 よって俺は――公園に嘘出勤する!

 なるべく人目につかぬように。

 今や周りの人間誰もが信用できない。


 公園などに嘘出勤している者を警察に密告チクった者には、わずかだが報奨金が支給される。

 パトロール中の警官に職質され、嘘出勤がバレる可能性もある。

 そして何より堕天男の務めるビックリカメラ六出那ろくでな支店の名物鬼店長が、無断欠勤をみすみす許すはずもなく。

 今ごろ社会人精神注入棒を手に、自宅付近を徘徊している可能性さえある。

 故に――堕天男は自宅から十キロ近くも離れた隣町の公園まで来ていた。

 ひとつの場所に長らく滞在しては、嘘出勤が疑われ、通報される恐れがある。

 休日にちょっと散歩に来たフリーターという体を装わなければならない。


「ルシちゃあ~ん。お仕事さぼってえ~、こんなところで何してるんですかあ~?」


 ふいに母沙麻さーまの声が聴こえ、堕天男の心臓がセルゲイ・ブブカもかくやという垂直跳びを敢行する。

 堕天男は恐慌状態パニックに陥った。

 馬鹿な――なぜヤツがここにいる――!?

 あの鬼畜店長が家に電話したとしても、俺がどこにいるかなどわかるはずが――

「どうしてここがわかったかってえ? うふふ。ルシちゃんの行動なんて全部お見通しよお~? こんなこともあろうかとお~」

 沙麻は平然と続ける。


「発信機を仕掛けておいたの♪」


 その右手には、堕天男の現在位置が表示されているスマホ。

 一体何なんだこいつは!

「愛する息子のルシちゃんがあ~、毎日ちゃあんと会社に行ってるかどうか、お母さんとしてちゃあ~んと見守るう~、責務があるのですよお~?」

 そして左手には、いつもの猛獣調教用の鞭。

「親としてちゃあんと、オ・シ・オ・キ、しなくちゃねえ~」


 まだるっこしいしゃべりとは真逆の、ネコ科の猛獣のごとき動きで疾駆、跳躍し、沙麻は急激に間合いを詰めてきた。

 この身体能力――明らかに日本人女性の限界どころか、人間を超えている!


「うわあああ、来るなあ!」

 堕天男は全力で逃げ出した。

 沙麻が繰り出した鞭の先端が、堕天男の皮膚を引き裂くべく!

 音速超えの速度で空気をひゅうんひゅんと切り裂き!

 縦横無尽に飛び回る!

「逃げるなんて悪い子ですねえ~。ルシちゃんはあ~。いつからそんな不良になっちまったのかしらあ~? ぷんすか」

 涼しい笑みで息ひとつ切らさず、オリンピックの体操金メダリストも裸足で逃げ出すほどのアクロバットな動きで息子を追う沙麻。


 ばちん、と、沙麻の繰り出した鞭の一撃が、大木の樹皮を抉りとった。


 母とは違い、人並みの運動神経しかない堕天男は、公園の木を盾にしながら木々の隙間を縫うようにして逃げる。

 遮蔽物があったのは、幸いだった。

 もし何もない平地だったら、オリンピックの短距離走選手スプリンターそこのけのスピードで走る彼女にはすぐに捕まってしまうだろう。

 この化物の血を引いているはずの俺がなぜこんなにも無力なのか――と、堕天男は己の理不尽を呪わずにはいられなかった。

 そして、事態はさらに悪化する。


「見つけたぞ~? 黒野堕天男」


 堕天男の行く先に、なぜか店にいるはずの店長が立ちはだかる。

 その手には、血まみれの社会人精神注入棒が握られていた。

「昨日さんざん愛をこめて社会人精神を説いてやったというのに、出社拒否とは。お前がそこまで救いようがないやつとは思わなかったよ。店長権限をもって、今日限りでお前を馘首クビとする。そして二度とこんな馬鹿なことができないように、全身の骨という骨を砕き! タコみたいにしてやるぞ。うっひっひ」

 会社の上司が眼の前で息子にこんなことを言ったら、普通の母親は激怒し、息子に味方するだろう。

 だが――

「あらあらあ~。ごめんなさいねえ~、店長さん。こんな不詳の息子で。この愛の鞭をもって、私が責任を持って、オシオキするわ」

 沙麻はむしろ我が子を嬉々と痛めつけようとするのだ。

 そしてそんなライオンのごとき獰猛な笑みを浮かべる人外母に、恭しくあたまを垂れる店長。

「いえいえ、私の方こそ部下の教育を誤ったようで。店の指導者としてお恥ずかしい限りです。責任を持って社会人精神を叩きこみます故」

 堕天男の意思など無視して会話するふたり。

 まるで彼が罰を受けるのは必然だとでも言わんばかりである。

 ふざけるな、俺が一体何をした――!?

「じゃあ、一緒にオシオキしましょっか♪」

 沙麻が思いついたように爽やかな笑みで言った。

「了解いたしました。我らの手で反社会的な若者を真人間に教育しましょうぞ。これも社会正義のため。いっひっひ」


 前門のチート、後門の店長きちく

 それぞれ得物を構えてじりじりと堕天男に歩み寄ってくる。

 堕天男は、逡巡する。

 逃げるか――?

 いや。あの店長デブはともかく、百メートルを八秒台で走りかねない母から逃げるのは不可能。

 真っ先にあのバケモノは俺を捕縛し、店長あくまと二人で俺を袋叩きにするだろう。

 ――よし、こうしよう。

 まず店長を倒して得物を奪い、母を殴り倒し、逃げよう。

 社会人精神注入棒を手に入れれば、丸腰よりはマシだろう。

 それでもラスボス相手に戦えるかすら怪しいが――現状、これが最も有効な策だと思われる。

 ブラック企業の闇など知らぬこの毒親モンスターに、社会人精神を注入してやる!


 なお、警察を呼ぶという選択肢は堕天男には初めからない。

 なぜなら会社を無断欠勤した彼が全面的に悪いことにされ、反逆罪で罰金刑に処された上に店長たちの暴力リンチには眼をつむるだろうからだ。

 そんな馬鹿な、と読者諸兄はお思いかもしれないが、今や日本の金権政治は腐敗しきっており、政治家や警察はすべて日本経済連合団、略して経連団けいれんだんによって買収され、牛耳られている。

 労働者を搾取して成功した連中の集まりが労働者に有利な仕組みなど作るはずもない。

 会社組織を円滑に回すという大義名分の下、上の人間は下の人間に何をしても許されるが、下の人間は上の人間に逆らうことは一切許されない!

「文句があるなら偉くなれ」というのは経連団会長の言葉である。

 閑話休題。とにかく現状、警察や司法はアテにならない。

 自分の身は自分で守らなければならぬ。

 一切の権利を奪われた労働者に最後に残された希望モノ――それは暴力である。

 元陸自の母よりだらしないビール腹のおっさんである店長の方がまだ勝算がある、と踏んだ堕天男は、乾坤一擲けんこんいってきの反撃に出る――!


「うオオオオオオオッ!」

 恐怖を紛らわせるため、ありったけの声で咆哮ほうこうし!

 骨の一本も折らせる覚悟で、最大級の憎悪を込め!

 全体重を乗せた鉄拳を、店長の顔面めがけて放った――!

 ごしゃッ!

 ……と、嫌な音が、公園中に響き渡った。

 が――


「今、何かしたかね。君イ」


 店長はあえて微動だにせず、

 あまりに荒唐無稽な光景に、堕天男の生物としての本能が、絶叫する。

 馬鹿な――元陸自の母はともかく、こんな運動不足のメタボオヤジが、齢二十三の成人男性(しかもかなり大柄な俺)の全体重を乗せた渾身の一撃を顔面にまともに受け、無事にいられるなど――!?

 そう。常人ならば良くて脳震盪のうしんとう、下手をすれば首が折れるなり脳内出血を起こして死んでも不思議ではない。

「先に手を出したのは、君イの方だよオ~」

 次の瞬間、社会人精神注入棒を持つ店長の右腕の筋肉が、ボコン、と爆発的に膨れあがり――

聖闘セイント・ホームラン!」


 まるで格闘ゲームのキャラか何かのように、堕天男は三メートル以上も上空にふっとばされていた――!(なお、補足しておくと聖闘セイントとは店長の下の名前である。彼もいわゆるキラキラネームであった)


 周囲の景色がやけにゆっくり動いているな、と堕天男は思った。

 ああ。俺、死ぬんだ――

 人間死が迫ると脳にかかっているリミッターが解除され、景色がゆっくり動くとは聞いていたが――死が眼前に迫ったら、もっとこう、生き延びようと必死であがくもんだとばかり思っていた。

 それは今まで送ってきた人生が人生だったからか、単にブラック労働で疲弊しきっていたせいだったのかは定かではないが、とにかく。

 まるで車にねられたように空を飛んだ堕天男は――


 砂場に頭から、着地した。

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