第二話――母(チート)

「ルシちゃあ~ん。こんな時間に帰宅とは、感心しませんねえ。夜遊びですかあ?」


 ブラック労働と過酷な体罰で満身創痍の堕天男ルシファーを、仁王立ちして迎える短身の若い女性。

 断っておくが、彼の恋人ではない。

 ましてや妻などでは断じてない。

 この低賃金長時間労働蔓延はびこる現代日本で、恋人を探す余裕のある人間はむしろ少数派マイノリティだ。

 彼女の名は、黒野沙麻くろのさーま

 変わった名前だが、れっきとした日本人女性であり、彼のである。

 童顔で非常に若々しく、二十代前半くらい、いや下手したら十代後半に見えるため、一緒に歩いていると年頃のカップルに間違えられることもしばしばだ。


 だが――こんな姿形なりして、実は女性初の元陸上自衛隊第一空挺団隊員という経歴を持つ剛の者であり、三年前に父の浮気が発覚した時は半殺しどころか九割九分九厘殺しくらいにして病院送りにした前科がある。

 断っておくが、父が軟弱だったわけではなく、むしろ若い頃は喧嘩じゃ負けなし、今でも筋骨隆々マッチョマンのサラリーマンなのだが、この規格外チート母には手も足も出なかった。

 さらによわい二十三にもなる息子の行動のすべてを刑務所の看守もどん引きするレベルで監視してくる、いわゆる過干渉型の毒母どくははであり、腕っぷしも立つ分反抗すら困難を極めるというまるでフィクションのような悪の権化だ。

 職場ではブラック労働、家庭では毒母の過干渉と虐待……


 そう――堕天男の人生は、まるで刑務所の囚人のようだった。


 この地獄のような環境から離脱することも何度か考えた彼だが、年々増える税金と年々減る日本人労働者の賃金が災いして可処分所得は雀の涙であり、この時代の多くの日本男児は親元での生活を余儀なくされる。

 それに加えこの堕天男の場合、預金通帳とキャッシュカードを母親に掌握されており、家出という選択肢はとれなかった。

 一度夜中に通帳とキャッシュカードの奪還を試みたものの、この目聡めざとい母はすべてお見通しであり、反逆を試みた彼を専用の拷問部屋で三度みたび鞭打ちにして懲罰し、小便をちびるほどの激痛が一週間もの間続き、夜もまともに眠れなかった。


 だが、こうした異常とも思える家庭環境、労働環境は、実は現代日本ではそれほど珍しいことではない。

 特に匿名投稿が売りのSNS・ツイスターには、奴隷のごとき低賃金長時間労働と監獄のような毒親の監視に悩まされ、精神を病む若者たちの悲鳴で満ち満ちている。


「門限のひとつも守れないなんて、なあんということでしょうッ! 私のルシちゃんが、不良になっちまったわ」

 いつもの如く芝居がかった調子で、沙麻は堕天男の首根っこを掴み、、いつもの拷問部屋に連行した。

 家庭内ルールをひとつ破るたびに、地獄の鞭打ち刑が待っているのだ。

「ま、待ってくれ。今日は残業で――」

 そう必死に弁明する堕天男の言葉など無視して沙麻は彼の手首を縄で縛り、服を脱がせる。

 上半身裸になった堕天男の体のいたるところに、店長と副店長の〈教育ぼうりょく〉によってできた無数のあざが見えていないはずはなかったのだが、そんなことはまったく気にすることなく。

 その手に持った猛獣調教用の鞭をひと振り。


 音速を超えるその先端が、空気を切り裂く音とともに。

 ぱしーん、と、疳高かんだかい音を立てた。


「うぎゃあああ」

 鞭によって背中の皮膚が広範囲に破られ、あまりの激痛に堕天男は失禁した。

「不良は皆そう言うんですッ! 悪い子にはきちんとオシオキするのはお母さんとして当然ですッ! 口答えするならもう一発お見舞いするわよ!」

 そんなことを言われたら、もはや押し黙るしかなかった。

 この毒母にとっては真実の究明よりも、息子の反抗を封じる方が重要なのだ。

 ――堕天男は、考える。


 俺たちは一体、何なのだ。

 現代日本という監獄に閉じこめられた囚人なのか。

 何もしなければ、一生この地獄の生活が続くことは想像に難くない。

 この毒母は死ぬまで俺の監視を続けるだろう。

 殺しても死なないような母だし、老衰でくたばる頃には俺ももういい歳、人生の再スタートをきるには遅すぎる。

 何としてでもこの毒母から逃れ、新しい人生を歩みだす必要がある。

 自由と権利は決して天から降ってはこない。それが現実だ。

 戦って、勝ちとるのだ。


 だが……どうやって――?

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