頭を下げる

黒うさぎ

頭を下げる

 私は深々と頭を下げた。


 失敗してしまった。

 普段ならしないようなミスだ。

 よりにもよってこの大切な日に……。


 ◇


 今の仕事についてもう何年もたつ。

 初めは新顔ということもあり、物珍しさから声をかけられることもあった。

 しかし仕事を続けていくうちに可もなく不可もなくな無難な立ち回りを見て、周りの反応も大人しいものになった。


 注目されるのは緊張したが、されなくなればそれはそれで寂しいものがあった。

 ただそれも歳を重ねるにつれて気にならなくなった。


 先輩の指導を受け自身のスキルアップに努めていた時期は瞬く間に過ぎ去り、気がつけば自身が指導する立場となっていた。

 だからといって向上心を忘れたつもりはなかった。

 新しいことは積極的に取り入れていったし、後輩から学べることがあれば恥とは思わず次々と吸収していった。


 努力に結果が伴っているかは正直なところわからなかったが、それでも今の仕事には満足していた。


 そんな日々を繰り返しているうちに、同期と比べれば遅くはあったが、それでも着実に私は昇格していった。


 位が上がるにつれて仕事にかける情熱も増していく。

 今の私は先輩や後輩、家族の支えがあって形作られたものだ。

 私の人生は既に私だけのものではない。


 ただ漫然とこなしていた仕事に、この歳になって漸く責任感を感じるようになっていた。


 その思いが空回りしてしまったのだろうか。


 同僚に対して頭を下げる自分は酷く惨めに思えた。

 きっと私を支えてくれる人々は気にするなと慰めてくれるだろう。


 しかし今の私にとってその言葉は癒しではなく、私の失敗を責め立てる怨嗟の声に聞こえてしまうに違いない。

 みんなの期待に応えることができなかった。

 その申し訳なさが胸を締め付けた。


 目の前の男は私の失敗を乗り越えて先に進んで行くのだろう。

 頭を下げる私と、それを神妙な顔で見つめる彼。

 私はこんな姿をみんなに見せたいわけではなかった。


 今日の仕事だけはけっして失敗をしてもいい類いのものではなかった。

 私の人生においておそらく後にも先にもない、大一番といって差し支えない大仕事だ。

 なにせ退職前最後の仕事なのだから。

 結果はどうあれ、せめて自分の持てる全てを出しきって後悔のないものにしたかった。


 それがどうだ。

 蓋を開けてみれば新人でもしないようなミスによって、全てが台無しだ。

 時間がたてばこの胸を渦巻く感情も思い出となるのだろうか。

 今の私にはとてもそうは思えなかった。


 このまま時が止まってしまえばいいとさえ思えたが、現実はそうもいかない。

 目の前の男にも迷惑をかけてしまう。

 失敗してしまった身だが、言葉にして相手に伝えることが私なりの誠意だと思っている。


 かすれそうになる声を絞りだし私は言葉を紡いだ。


「ありません」


 こうして私の長きに渡る将棋人生に幕が下りた。






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