5

 昼は死に絶え、街は夜に沈められた。死後痙攣の様にざわめきを残す駅前を、アカネは糸が切れた様に歩いていた。アカネの足取りを不確かにする理由は、マキを食べた事ではなく、帰宅先の事務所に居るであろう所長の処遇を思い悩んでいたからである。

 所長は罪を犯した。恋人の娘に欲情して性的な対象として見ていた事も、盗撮などの違法行為を行う事も。それがずっと行われてきた卑劣である事も見過ごせない。

 しかし、この件は他の事件と一線を画してしまう。

 証拠を破壊してしまった事ではなく、アカネ自身が所長の行いに対して、強い怒りを覚えている事である。

 それは初めての事だった。アカネは罪人であると認識した時点で、相手を人間の範疇から外してきた。それ故に、映画のワンシーンを眺める様に、他意なく相手を葬る事が出来たのである。

 それなのに、この件に関しては、胸に湧く怒りと不快感に動かされてしまっている。更に言えば、6年前に心の奥底に生まれたらしい小さな痛みが、心臓の鼓動を乱しているのも異例だった。鋭いような、空虚なような、不可思議な、内部刺激は何であろう?

 アカネは答えを出せぬまま雑居ビルに到着する。探偵事務所に続く階段を昇り、扉を開けて中に入った。

「悪いな、眠っててくれ!」

「あぐ!?」

 事務所への帰宅を迎えたのは、聞きなれた声と灼熱の痛みだった。

 ベチャリと、体内に冷たい金属が侵入してくる。ドアの陰に隠れていた人物に、脇腹を刺されたらしい。

「うあああああ!!」

 刺さったナイフの先端が爆発した。内蔵が消し飛ばされる衝撃が、意識諸共に暴れ回る。アカネはよろよろと後退し、壁に背を預けて座り込んだ。

「WASPナイフでの奇襲。流石に動けないと思うけど、念は入れさせてもらうよ」

「うく……ぁ……」

 ブラックアウトする視界の向こうで、侵入者の影が揺れる。

 WASPナイフとは先端に穴が開いたナイフで、引き金を引くと穴から炭酸ガスを噴き出す仕組みになっている。鮫すらも一撃で屠る悪夢の兵器だ。

 それだけでもアカネは瀕死だと言うのに、暴漢は更にアカネの首に何かを刺した。

「なあ……に……?」

「注射だよ。でも安心して、毒じゃない。いや、度数の高いウイスキーだから、殆ど毒かな?なんにせよ、合法的に手に入れられるものだよ」

 直接大静脈にアルコールを注射されたアカネは、透明な炎に炙られているような目で辺りを見回した。

 事務所の電気は消えており、ソファやパーティションが倒れている。争ったという荒れ方ではなく、誰かが慌てで逃げようとした雰囲気だ。

 部屋には一人…いや、二人の人物が見受けられた。一人は黒いレインコートを着た端正な顔立ちをした少年。アカネを動けなくした張本人で、名前を黒鉄葵という。

 もう一人は白いスーツを真っ赤に染め、床に転がっている人物、白崎ハガネ。彼は既に事切れていた。

「所長……」

「所長じゃない。白崎ハガネだ」

「所長じゃないの?」

「ああ」

「ハガネ……ハガネを殺したの?アオ……」

「ああ」

「私も殺すの?」

「ああ。でも、君を殺す前に君を知りたい。だから、話をしたいんだけど、いいかな?」

「話?」

「白崎アカネ……いや、彩色アカネ。君は一体何者だ?」

「私は……人間……」

「そこに拘るね。なんで?」

 アオは、優しい口調で尋問する。

 意識が朦朧としたアカネは、聞かれたことに素直を答えていく。

「皆…私を悪魔っていうの……」

「なんで?」

「人と違うから。私は人間を食べないと生きていけない。だから……だと思う」

「ふ~ん。辛かったんだね」

「辛い?私辛かったの?」

「きっとね。アカネが辛いのは、悪魔って言われること?それとも人間を食べないといけない事?」

「分からない…」

「人間を食べるために、こんな探偵事務所まで経営してる訳か」

「わた……この事務所を経営してるのは、所長…所長がしているの……」

「所長って、どの?元々この場所に探偵事務所を構えていたのは、君の母親の恋人、吉原オウドだろ?けど、彼はチンピラだった白崎ハガネ達に車ごと崖下に転落させられて命を落としてる。その後、君は白崎ハガネを拉致監禁し、探偵事務所のお飾り所長に据え付けた」

「何を…言ってるの…?」

「君は警察や色々な所から寄せられる相談に応え、罪ある人々を殺して回った。ここは探偵事務所というより体の良い殺し屋だ。それは人を喰わねばならない君の性質にマッチしていた。君は何か特別な方法で、死体の残らない殺人が出来ると、白崎ハガネは言ってたよ」

「………」

「大事な質問は、ここだけ。アカネ、どうして罪人だけを喰う?」

「そ、それは……それしか食べちゃダメだから……母親が…言ってた…」

「凄いね、ここに来て嘘とは!俺は君は嘘なんて吐かないタイプと思ってたよ」

「私、嘘なんか、吐かない……」

「アカネは、最初、カラスやら野良ネコやらを食べ始めた。それは飼い犬、飼い猫なんやらを食べるよりは害獣を喰った方が良いって、吉原オウドに言われたからでしょ?それは白崎ハガネに聞いた」

「そ、そうなの!『母親』に言われたから、私は……」

「でも、罪人を喰えなんて、言われてないでしょ?」

「あぅ……それはそうだけど……」

「自分で決めたんでしょ?悪人を喰うって。本当は全ての人間を食べ尽くしたい癖に、そんな制限を付ける。仕方ないよね。俺達が食事する時は、お金っていう制限がある。でもアカネの場合は無制限だ。君は人間が存続する限り、食べ続ける事が出来る。警察?気にしないでしょ?君は完全犯罪が出来るし、いざとなれば警察全員喰っちゃえばいい」

「……」

「君の部屋を見たよ。物凄いの一言だね。部屋が汚いのは別にして、あの巨大な冷凍庫さ。中に在るのは人間の死体。言うまでもなく君の食糧でしょ。水城イチコと思われる死骸もあった。君は街中で水城イチコを殺して、誰にも見咎められずに死体をここまで運んできたんだ。そういう手段があるって事は、正直捕まらないよね。

 ま、それより驚いたのは、遺体に加工の跡がある事かな。腸を引き抜いて他の部分の肉を詰めたボールみたいなのは、ソーセージでも作ろうとしたの?申し訳ないけど、大爆笑したよ」

「わ…わたし…あんまり料理しないから……土木作業みたいになっちゃうの」

「いや、悪い悪い。アカネを馬鹿にした訳じゃないよ。普段スーパーなんかで目にしてる食肉加工も、豚や牛ならいいけど、人間でやると受け入れ難いんだと思ってさ。確かに笑うよね!僕らの食事っていうのは、動物とか植物とか、100%生物の死骸を切り刻んで抽出して、混ぜ合わせて、組み立てて作ってる。つまり、商店なんて見方によっちゃグチャグチャでバラバラな死骸置き場さ!

 まあ、俺が言いたいのは、アカネにとって飯を食う事は、生きるために必要な事でしょ?俺達だって、食事は必要さ。だから、金さえあればグロテスクに死骸を加工するのだって躊躇が無い。それなのに、アカネがそんな必要な事を制限するのは、なんでかなって思ったんだよ」

 アオの言葉は、6年前に生まれたアカネの傷に触れるものだった。普段なら出てこない筈の答えを、酩酊したアカネは理解せぬままに吐き出していた。

「お、美味しかったの」

「は?」

「ママとかね、オウドとかを食べた時ね、物凄くおいしかったの。頬っぺたが落ちそうなくらい!」

「人間の肉にも旨さの違いってある?若い方が良いとか、女の方が巧いとか」

「ううん!愛なの!」

「は?」

「私の知り合いだとかで味が決まるの。全く知らない人に比べて、イチコの方がおいしかった。イチコに比べたら、マキの方がずっととおいしかったの!」

 アカネは目を輝かせて力説する。けれど、直ぐに顔を伏せた。

「でもね、私の友達がおいしいって事は、おいしいものは限られちゃうってこと。アオもきっとおいしいんだよね!でも……アオは一人しかいない」

 あ、これ、いつか食べられる。

 と戦きながらも、アオはテンション高くアカネに近付いた。

「いや、やっぱり話を聞いて確信したよ。アカネは人間だ。俺が保証する」

「…なんで?」

「俺だってね、生きるために殺してきた。馬鹿な父親、母親の下で生まれたって事は、そいつの為に仇討ちをする事でしか消せないんだよ。分かる?俺は人生を生きるためには、殺さなきゃならなかった。そこに疑問を差し挟む余地はない。

 でも、やっぱり人間は義務の中にも趣味や娯楽を混ぜないといけないのさ。つまりはさ、どうせ殺すなら、可愛い子の方が良いし、そいつを愛してれば、より最高な訳さ!」

 ああ――だから、つまりはそういう事。

「血に濡れたアカネは最高に美しかった。控えめに言っても天使かと思った。要するに黒鉄葵は、白崎朱音に恋をしたんだ」

 アオは意識の混濁しているアカネに何かを咥えさせ、火を点けた。沸き立つ煙にアカネが咽てる内に、火の点いたタバコを口から引き抜き、絨毯の上に投げ捨てた。予め油を染み込ませてあった絨毯は直ぐに燃え上がる。炎は広がり、いずれこの部屋を焼き尽くすだろう。

 全てを炎が終わらせる前に、アオにはしなければならないことがあった。

 いつも思っていた。人間には感情があるのだろうかと。

 もし無ければ、自分は無価値なんじゃないかと。

 けれど、あの日、イチコを喰うアカネを見て知った。胸の奥底から湧き上がった衝動は、決して偽物なんかじゃないのだと。

「アカネ!お願いだ。殺させてくれ。このナイフで滅多刺しにさせてくれ」

「……」

 アカネは焦点の定まらぬ目でアオを見る。

 その精神の異様、その性癖の異形。

 アオの無色透明の感情を嗅ぎ付けたアカネは、だらりとした表情のまま笑った。

 ――ああ、自分が悪魔だとしても。

 ――もし、自分が人間だとしても。

 どちらでもいいのだと理解した。

 自分は悪魔だと母親は言った。敬虔な子供は、それを真実だと思い、必死になって否定した。

 けれど、そんな苦しみは無意味だったと思い知った。

 だって、目の前のグロテスクな獣は、確定的に人間らしい。自分より醜いものが人間として生を受けているのだから、自分だって真っ当に人間を名乗れるのだ。

「いいよ、アオ。見せ付けて、その気持ち悪さを」

 アカネがアオを抱き締める様に両手を広げる。それが早いか、アオが歓喜の歌を絶唱する。

 凶刃はアカネの肉体に落とされる。自慰を覚えた猿みたいに、何度も何度も刃は突き立てられる。新雪を踏み躙る様に、新芽を毟る様に、柔らかい肉は床に散らばっていく。

 炎に照らされた男と女、その生と死。

 やがてアカネは動かなくなり。

 その肢体が全て切り裂かれるまで、アオは享楽に耽り続けたのだった。

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