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「は…は…は…」

 息を切らせ、走る…走る…走る。

 階段を駆け下り、ビルの外へ向けてひた走る。

 アカネが落ちたのは、ビルの路地裏方面。路地裏の入り口にはゴミをぶちまけて立ち入り難くしているし、見張りも立たせてある。

 死体が発見されるより前に逃げ切るのは容易な筈だ。

 だが、それでも何かの歯車が狂い、証拠を消す前に事件が明るみに出る可能性も無くはない・

 まかり間違って逮捕でもされてしまえば一大事。未成年とは言え、この情報化社会では、名前なんてすぐに露見し、拡散されてしまうだろう。

 冗談ではない。人生には何の益にもならず、単にせねばならないという衝動からくるこの犯行。人生を賭ける価値もない行為で、人生を失うのは馬鹿らしくて仕方ない。

「は!……は!仕方ない。仕方ないよね?だって、アカネちゃん。アオくんに服をプレゼントされて、その服着てデートするとか許されないよ。手を繋いで、一緒にご飯食べて、観覧車とかジェットコースター乗ってさ!」

 1階に降り、階段の裏に回る。そのまま非常口から出て監視カメラの無い場所を通り、群衆に紛れてしまえば、今回も完全犯罪の出来上がりだ。

「お疲れ様~、マキちゃん」

「誰も来てない?」

「だいじょぶ、だいじょぶ」

 エントランスで見張りをしていたチャラい男子学生が、階段から降りて来たマキを迎える。彼は紳士を気取って先導すると、マキのために非常口の扉を開けた。

 扉が開く瞬間、マキは僅かにホッとした。

 ビルから出てしまえば、人に見られても言い訳できる。この先に転がっているのは知り合いの死体なのだから、挙動が不審であっても『混乱してました』の一言で切り抜けられるだろう。

「痛いじゃない、マキ。突き落としたら」

 ――しかし、扉を開けた先の路地裏には友達の死体など落ちておらず。

 ――全身血だらけのアカネが待ち受けていた。

 アカネの足元には、無残な形に崩壊した肉の塊が落ちている。恐らくは、路地裏を見張らせていた男子学生だったモノだろう。

「きゃあああああ!」

「え?何?え?白崎?」

 マキは悲鳴を上げてビルの中に後退する。

 チャラい男子学生は即座にナイフを取り出してアカネに切り掛かった。

「ぐあ!」

「ひっ!」

 アカネに襲い掛かった男子学生は逆に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられる。ベシャリと血が壁に広がり、男子学生は地面に落下して動かなくなった。

 マキは蒼白になって、車道側の出口へと走った。

「開かない…なんで!どうして!」

 表の扉は真っ黒に塗り潰されていて、押しても引いてもびくともしない。半狂乱で扉を叩くマキの背中に、いつも教室で聞くトーンのアカネの声が掛けられる。

「そこは開かないようにしといたの。マキだって、邪魔が入ると嫌でしょ?」

「ひ!」

 振り返ると、血だらけのアカネの無機質な表情に出会う。機械の様な感情の薄い唇が、緩く音を漏らしている。歯車仕掛けみたいな動きで、皮の擦り剥けた左手をマキの方へ向けた。

「来ないで!!」

 マキは手を払いのけ、アカネの脇を転がる様に抜ける。2階の窓から外に出ようと、階段を駆け上がった。

「あく……あだ!」

 しかし、何かに足を引き擦られて転び、階段の角に鼻をぶつけた。

「なに?なんなの?!」

 鉄の味と痛みで涙を流しながら、足元を確認する。その光景に、理解できぬ不快感が、背骨の中を這いずり回る。

 アカネの影が拡大して、マキの足首を掴んでいるのだ。万力の如き力で締め付け、ベルトコンベアのような強靭さでマキを階段に押さえ付ける。

 影はマキが暴れる程に脚に食い込み、上に這い上がって来る。

「なにこれ、痛い……きゃあ!」

 影に引っ張られ、階段の最下段まで引き戻される。顔面を強打し、視界が一瞬消えた。

「あ…あ…」

 意識は瞬き、グラつく視界で見上げると、肩から骨が飛び出た同級生が、不気味に光る瞳でマキを覗き込んでいた。

「痛いじゃない、マキ。ビルの屋上から落ちるとね、心臓がキュッとするんだよ。ジェットコースター思い出しちゃった」

「痛いって…なんで、そんなので済むの?なんで、死んでないの!アナタは、ビルの屋上から落ちたのよ!」

「なんでって、私は死なないよ?だって、死んだことないもん」

「ば、化け物!ふざけないでよ!私は必至の覚悟でアカネちゃんを蹴り落としたのに、そんな平気な顔しないでよ!信じられない!それでも友達なの!?」

「化け物じゃないよ。酷い事を言うね」

 アカネはカクリと首を傾げ、赤い瞳すら影の中に消えていく。辺りの影が濃くなっていき、生物の腹の中に居るような悍ましさがマキの鼻腔を這いずった。

「私はね。化け物なんて言われたら怒るよ。言っちゃダメな言葉って、母親が言ってたもの。でも、食べられるために生まれる生物の声は、一々気にしちゃダメって事も言われたの。だから、今回は怒らないでおくね」

「どういう…意味?」

「どうって?何か意味がある?」

 アカネの顔が、体が、影に塗り潰されていく。真っ黒になったアカネの貌、そして、空間全体に赤い亀裂が入る。

 氷に入ったヒビのような赤は、全てを飲み込む化け物の口に思えた。

「マキって、女性連続突き落とし事件の犯人?」

「な、なにそれ?」

「私以外の他の女の子達も、マキが突き落としたの?」

「なんで、そんな事。私が答える訳ないじゃない……あぐぅ!」

「答えないなら、次は左手の皮を剥がすね?」

「止めて!わ、私が突き落としたの!」

「そうなんだ」

「そうよ!悪い?アオくんと仲良くしてる奴を突き落とした。階段から、ホテルの窓から、駅のホームから。奴隷君達に指示してアンタを虐めたのも私!でも、それがどうしたの?あいつらなんて、怪我して当然だし、死んだって仕方ない。格好良くて、勉強できて、優しくて、アオくんは私の理想の人!それに引っ付いてくる女なんて……」

「それ以上はいいの。漫画の犯人みたいに理由をべらべら喋るの、好きじゃない。マキが罪人だって分かれば、それでいいから」

「罪人?それでいい?わ、私をどうしようっていうの?私は犯罪者じゃないわよ。証拠が無いもの。今までは完全犯罪だし、今回だって一緒!この廃ビルに監視カメラは無いし、アカネちゃんが置いてたカメラも破壊した。肝心の死体だって、この通り動いてる。警察に言うの?『私、殺されたんです』って。頭おかしいって笑われるわ。アカネちゃん元々おかしいから、絶対妄想だって思われるよ!」

「どうして警察が出てくるの?警察に渡しちゃったら、食べられないじゃない」

「食べ……は?」

 マキは意味が分からないと顔を引き攣らせる。

 そして、アカネの顔が黒に覆われているのに気が付いた。逆光で陰になっているのではなく、これは黒に塗り潰されているのだ。

 そして、元々口があった部分に真赤な切れ目が入り、口裂け女みたいにニタリと笑った。

「嘘…嘘でしょ?食べる?食べるって言ったの!?許して!ごめんなさい!」

 本能で何が起きるのか察したマキは、泣き喚いた。しかし、既に手遅れ。影に体を押さえられて動く事は出来ず、眼前にはアカネの口が迫る。

「許して…神様……」

 マキは、この期に及んで神に祈るが、見当違いも甚だしい。

 祈りとは人に向けて紡ぐもの。ここには神や、ましてや人など存在しない。

 マキの祈りは世界に落ちた影に消え。パックリと、彼女の頭部は失われたのである。

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