6

 窓ガラスに炎を映す探偵事務所から離れ、足早に繁華街を後にした。向かう先は三色町の住宅街。恐らく俺の終点にして、叶うのならば再出発の地となる場所だ。

 いや、再出発は言い過ぎた。

 俺の人生は、未だ嘗て何処にも向かった事は無い。真実の周りを迂回する探偵の様に、恋に恥じらう乙女の様に、俺は人生を歩むと言う行為に手を出していないのだ。

 だから、叶えば初めての旅路。一人旅というヤツだ。

 人が環境に対して反応するだけの生物だとしても、俺の心が外部にしか存在していなかったとしても。真実として、今俺は高揚している。

 正直な話、俺はアカネを殺す必要などなかった。アカネの殺人のメカニズムを解き明かし、利用した方が良かったのだ。

 それでも我慢できなかった。アカネを殺したくて、アカネを真っ赤に染めたくて、アカネを滅多刺しにしたくて仕方が無かった。

 ――なんて非効率的。なんて非論理的。

 ――俺が環境に従わなかった衝動の名。

 ――それを、あの悪魔も愛と表現した。

「いいね。幼稚で高慢で青春だ。間違えたら間違いのまま突き進み、正解まで辿り着くのが若さって奴なら、愛って奴は正解を打ち砕く破滅の鉄槌。何処にも辿り着かない俺の道なら、壊してしまうのが筋ってものだね」

 歩くに連れて道を通行人が減っていく。今はすれ違う人も殆どおらず、周りの家の明かりすら疎らになっている。

「ああ。ここなんだね」

 胸の衝動に導かれるままに辿り着いたのは、寂れ始めた住宅街。

 聞く所によるとここら辺は、慈善事業によって孤独な老人様に格安の賃貸住宅が提供されていたらしい。孤独な老人同士交流を持ち、寂しさを紛らわせればいいと考えられていた。

 しかし、思った以上に老人達の結び付きは強く、役人の想像を超えて彼らは排他的だった。

 結果として、先達の老人達は後発の老人達を受け入れる事はせず、この住宅街は先達の老人達の衰弱と共に静かになっていった。

 残っているのは空き家か、寝起きする気力もない骸ばかり。街灯の整備すらも御座なりになっているらしく、道はかなり暗かった。

 その暗い道の先に、どす黒い獣を見付けた。

「やあ、スイ。待たせたね」

「ああ、どうしたんだ。アオ」

「電話で言った通りだよ。白崎ハガネを殺し損ねて、逃げられた」

 俺はレインコートの下で得物を構えながら、スイに近寄っていった。

 スイは考え込み、射殺す様な視線を叩き付けてくる。

「で?俺を呼び出して、どうしようってんだ?」

「白崎を探せない?このまま逃げられるのは、お互いにマズいと思うんだよ」

 スイは現役の刑事であり、柔道と剣道で全国大会に出場する強者。まともに構えられては、こちらに勝ち目はない。

 ならば、飛び道具に頼るしかないではないか。

 後、10メートル。

 後、5メートル。

 後、3メートル。

 後、ホンの僅かで一足一刀。

 半歩踏み込めば殺人可能という距離に来た時、

「下がれ、アオ。殺気がおかしいぜ?」

 スイは俺に停止を命じ、自らも一歩後ろに下がった。

 流石は裏と表で修羅場を潜り抜けてきた卑怯者だ。素人の学生相手でも容赦がない。

「悪いね、スイ!もう俺は用済みなんでしょ?だから、白崎ハガネに指示をして、俺にアカネを嗾けようとした!」

 ならば、この一歩を除いて生存はない。俺はコートの下に構えていたスペツナズ・ナイフの引き金を引いた。

 スペツナズ・ナイフ。通称弾道ナイフと呼ばれる代物で、引き金を引くと強力なスプリングにより刃が発射される。刃は時速60キロで発射され、回避など不可能な一撃となる。

「うぐ…アオ……お前……」

 レインコートの前面を裂きながら刃は閃と成り、スイの腹部に命中した。

「白崎ハガネの事務所を調べたら、お前とのやり取りの記録が出て来たよ。サカキっていう偽名でね。その白崎を俺に殺させたって事は、俺も殺される算段なんでしょ?それで、自分勝手に動く売春グループも、バカな学生も、信用できない元子分も消えて、スイは滞りなくキャリアを歩めるってものさ」

「アオ、お前…って奴は……」

 腹に刺さった刃を押さえながら、スイの脚が崩れていく。

「……本当に中途半端だな!」

 俺が気を抜いた一瞬で、スイは拳銃を引き抜いて発砲した。

「ぐああああああ!」

「悪いな、演習用のゴム弾しかないんだ。一思いに殺してやりたいが、即死って訳には行かねーな」

 拳銃から撃たれたゴム弾は、足と腰に命中して灼熱を生み出した。俺の喉は張り裂けんばかりの絶叫を上げ、俺の体は地面をのたうつ事しか出来なくなった。

「叫べよ、アオ。まあ、叫んでも誰もこねーけどよ」

「あく……ぐ……」

「こんな殺しに適した場所を選ばれたら、考えが筒抜けなんだっつーの」

「どうして……刺したのに、無事なのさ……」

「防刃チョッキだよ。お前が俺を殺そうと思ったら、お得意の弾道ナイフ位しか手はないからな。準備しといたぜ」

 スイは笑いながら、もう一発銃弾を撃った。

「ぐああああ!!」

「後、『サカキ』は偽名じゃなくて、俺の昔の仲間の名前だ。俺と同じで警察に入ってたんだが、アカネに殺されちまった。まっずいインスタントコーヒーが好きな奴でよ、いつも聖人みたいなことを言ってた。

 ずっとアカネを口説いてたんだが、結局無理やりヤろうとして返り討ち。傑作な奴だったよ。そして、俺が悲しくも『サカキ』って役割を、アカネから拝命しちまった訳だ」

「うぐう!!」

 もう一発撃ち込まれる。太ももに命中した弾丸は、大きな筋肉を押し潰し、恐らく俺を歩行不能にしただろう。

「いやな、水城イチコ居たろ?ハガネが、あれ勝手に殺しちまったんだよ。俺が命令してないのにだ。だから、お前にハガネを殺して貰ったんだ。お前の事は殺す気なんてないぜ」

「……殺さずに、全部の罪を着せる気なんでしょ?」

「半分正解。二つある選択肢の内、片一方はそうだ」

「もう片一方は考えたくないね」

「だろうな。アレに喰われるとか、およそ人の死に方じゃない」

 スイは、俺をアカネに殺させる気だったらしい。

「俺は思うんだ。人間の価値は何処で決まるのかってな。そりゃ、死に際だろう」

「死に際?」

「マッチ売りの少女って童話知ってるか?」

「何が言いたいのさ?」

「皆が楽しくやってるクリスマスに、父親にマッチを売り切るまで帰って来るなと命令された少女の話だ。あんな残酷な話を良く子供に聞かせるもんだと笑った記憶があるが、嫌いじゃないぜ」

「……」

「あの少女はよ、救われたんだ。幻覚や気休めかもしれないけど、一人寂しく生きるしかない世界で、好きなばあさんと共にこの世を去れたんだからよ」

「それが幸せだって言いたいの?」

「いいや。ありゃ、最低だ。だって、少女は自分としては満足して死んだのに、誰一人それを理解していない。世間から少女へ評価は『可哀想』だけだぜ?ま、クリスマスの夜に独り、マッチの燃え殻抱えて凍死してりゃ、そういう評価になるわな」

 スイは高揚しているらしく、上機嫌に話を続ける。

「俺的な一番な死に方は、孫や親戚に囲まれて、惜しまれながら息を引き取るって奴かな?二番目は、テロリストから国を守って、英雄として命を落とす的なやつだ。でも、『喰われる』って笑うよな。そいつの人生全否定の最後だぜ?ぶっちぎりのワースト1だ」

「……」

「アカネに喰われる末路を取りたくなかったら、罪を被って捕まれ。別に、いいじゃねーか。お前は、未成年だから少年院に入るだけだ。良い少年院に入るように手配してやるからさ。もちろん、俺の関与をチクろうものなら、アカネの腹の中にぶち込んでやるけどよ」

「冗談じゃない……6人の殺しの罪を着せられたら、俺の人生は終わるよ。スイを殺して、一か八かの逃亡生活をした方が、幾らも人間的だ」

「そう言うなよ。娑婆に出てきたら、面倒見てやる。お前にはその道しかないんだ……ん?6人ってなんだ?」

 スイは銃口を突きつけたまま指を折り、数を勘定する。

「4人は、復讐対象か?もう1人は、ハガネか。じゃあ、もう1人ってのは……俺か?」

「まだ殺してないよ。もしかしたら、自分自身の事かもね?」

「ふざけるんじゃねーよ。人の命の事だぜ?お前には生命への尊敬って奴が足んねーよ」

「不誠実な人間が、真っ当な事口にしないでよ」

「俺は真っ当な人間だっての。職もあるし、結婚もしてる。それなりに遊んでるし、社会貢献だってしてるぜ?」

「………逆に聞くけどさ、誰だったら殺して欲しくないの?」

 新しい朝を迎えてやるって意気込んだのに、この様だ。情けなくて、滑稽で、せめてスイをからかってやろうとそんな質問をした。

 しかし、何かを察したのか、スイは人を殺せそうな怒鳴り声を上げた。

「………まさか、お前……誰を殺した!」

 スイは俺の襟を掴むと、動かない体を無理矢理に引き上げる。

「く、苦しい……」

「言え!もう1人って、誰だ」

「しろさき……アカネ……」

「殺せる訳ねーだろ!ああ、畜生!」

「あだ……」

 スイは、こっちが申し訳なく感じる程、蒼白な顔面で後退る。

 襟首から手を離された俺は、落下して尻餅を付いた。

「これだから、道理の分からねー餓鬼は嫌いなんだよ!言っとくが、お前が悪いんだからな」

 スイは落ち着きなく爪を噛み、コンクリート塀を蹴飛ばした。いつもの獰猛さとは違う、考えられない様な取り乱しようだ。

「お前とは長い付き合いだから、親切心で言ってやる。これ以上『間違えるなよ』?」

「間違えるなっていうのは、俺の人生の話?それとも、女子大生にあまり手を出さなかったのがいけなかった?」

「問答してんじゃねーんだよ!お前は人を操れると思っている小賢しい餓鬼でしかないんだよ!くそくだらねー全能感に酔い痴れる馬鹿で、人間こそが何よりも恐ろしいと思っている。いや、自分こそが何よりも恐ろしいとでも言いたいらしい。

 だが、真実に怖い奴ってのを、お前は知らねーんだ!いや、知ってても、お前のバカな頭じゃ理解出来てねーんだよ!」

「アカネの事を言ってるの?いや、アカネは殺したって……」

「オウドは、俺達の直系グループを潰す直前まで追い込んでた。だから、見せしめの意味を含めて、襲われたんだよ。ハガネのグループは山道でトラックをぶつけてオウドの乗る車を崖下に落とした後、仲間を連れて死体を探した。

 そこで見付けたのが、オウドの死体を喰ってるアカネだ!ハガネは驚いて、持ってる拳銃の弾、全部アカネに打ち込んだって言ってたぜ。自分のだけじゃなくて、部下の分もな」

「嘘……でしょ?それで死んでないの?」

「死んでねーよ。そして、その時に起きたのが代替わりだ」

「代替わり?」

「ハガネは、オウドの代わりに『所長』にされた。俺がアカネの中で『サカキ』にされた様にな。嫌でも役割を振られるんだよ。お前は『罪人』にでも、カテゴライズされるんじゃねーの」

「……無理矢理割り振られた役割なんて、無視すれば良いじゃないか」

「だから、お前は餓鬼だってんだ。社会だって、アカネだって一緒だ。与えられた役割っていうは、生易しいモノじゃな……げは!」

「スイ!」

 突然、スイが吹き飛ばされ、五メートル先のブロック塀に叩き付けられていた。そのまま地面に崩れ落ち、動かなくなった。

「あ……あ……」

 振り向くと、白崎朱音の姿があった。

 彼女は付き出した腕を戻し、無人の道路に仁王立つ。

(なんだ……なんだ、あれ!?)

 黒く長い髪に、白いコート。短めのプリーツスカートからすらっとした足が伸びている。

 顔は黒く塗り潰され、道路にぶちまけられた巨大な影が、別個の生物の様に蠢いている。ぎこちない動きで一つ痙攣した後、アカネは獣の速度でスイへと突撃する。

「止めろ、朱音!」

 思わず叫んでいた。俺の声に連動して朱音の動きは止まる。ホッとしたのも付かぬ間、しまったと後悔した。

 朱音は機械仕掛けの歪さで、俺の方を振り返ったのだ。

「ひ!」

『間違えるなよ』

 顔が真っ黒に塗り潰され、裂け目の様な口だけが真っ赤に光る朱音。人ならざる姿を見た時、スイの警告が頭を過ぎった。

 でも、きっともう遅い。俺は既に間違えたのだろう。

 ギリギリと朱音が近付いてくる。

 終わりだ。警察官を殺した後の逃亡生活とか、6人殺してぶち込まれる少年院とか、ゴム弾を死ぬまで撃ち込まれる結末とか。

 何故、俺はそういう未来を選び取らなかったのか?そのどれだって、今より断然良い筈だ。

 思い出されるのは朱音の部屋。冷たい冷凍庫に積み上げられた、滅茶苦茶な形の死体達。俺も食われ、喰い差しをあそこに積まれるのだろうか。

「嫌だ……止めて……」

 そんな最期が、在って良い筈がない。

 俺は罪深いし改善の余地もない。けれど、食料として生まれてきた訳じゃない。

 野生に生まれ、自由に野山を駆ける馬が居る。

 競走馬として生まれ、喝采を受ける馬が居る。

 一方で喰われるために生まれ、スーパーに並ぶ桜肉も居る。

 子供じゃないんだから、桜肉用の家畜が可哀想だとは思わない。この世界が、目に見えるが認識できない犠牲の上に立っているのは分かっている。

 誰かが『僕がこのプリンを喰ったら、誰かが死んだりするのかい?』なんて歌っていた。

 死ぬさ。それが犠牲ってものだから。

 でもさ?

 ――その『犠牲』が、他の誰かじゃなくて自分で良い筈がないじゃないか。

「は……ぅ……」

 痛い痛い痛い痛い!

 スイに撃たれた下半身が痛い!どうやったって動けない!

 ここに留まれば殺される事は分かっているが、肉体が動こうとしない。尻餅を付いたまま後退ることしか出来ない俺に、アカネは弾かれた様に飛び掛かってきた。

「うく………!」

 殺される、喰われる、加工される。

 動かし難い絶望が、夜空の様に俺を押し潰す。朱音に馬乗りになられ、腕を押さえ付けられる。人間離れした膂力に、肩の骨が軋みを上げた。

 頭を齧られるのか?腸を喰い散らかされるのか?初めに手足を捥がれるのか?遠慮なく腹を噛み破られるのか?

「……?」

 痛みに怯え、目を瞑り、俺は終演を待つことしか出来なかった。初夜を奪われる生娘かと笑いたくなる受け身っぷりだが、情けなくも早く殺してくれと願うばかり。

 しかし、恐れた未来は訪れなかった。俺の肉が失われることは無く、代わりにペッドボトルの水でも掛けられている様な、大量の液体が顔に降って来るばかり。

(なんだ?これ)

 何が起こっているのかと思い、瞼を開ける。

 すると、少女の様に頬を紅潮させたアカネと目が合った。

「は?」

(なに、こいつ?)

 彼女は発情した犬の如く、だらしない表情を晒しており、息も荒く俺の目を見詰めている。水だと思った液体は、止めどなく溢れる彼女の涎であった。

 訳が分からず、頭痛が止まない。疼きの様な恐怖に、血管を押し潰される。

 こっちは処刑直前の死刑囚の気分だってのに、執行直前に執行官にデートにでも誘われた気分。目の前の肉塊は、意味の分からない奇声を発し始めたのだ。

「ねえ!胸の痛みの正体が分かったの!『生きるのに、何を苦しんでるのかって』指摘されてね!それで、私すっきりしたの!それでね、気持ち悪いと思ってたこの胸の怠さがね、恋なんだって気付いたの!」

 アカネは、百点のテストを親に見せる小学生みたいに、キーキー喚いている。畜産動物の様に殺されるのだと覚悟していた俺は、混乱しつつも安堵の息を吐いた。

 しかし、直ぐに自分は『間違った』のだと気付いた。

「あのね!アオっていう同級生がね、教えてくれたの!愛しい人を自ら失うのも人間なんだって!私、人間なんだって!だからね、私思ったの!アナタが食べたいの、『所長』!ね!いいでしょ!」

「………」

 アカネはおねだりする悪女の様に、俺の首筋に噛み付いた。背筋がぞくぞくする甘嚙みの感触に、俺は体を硬直させる事しか出来なかった。

 人間の一番の苦しみは何であろう?それは不全である。記憶の不全、精神の不全、身体の不全、様々にあれど、最悪なのは意思疎通の不全だ。

 考えても見て欲しい。いきなり宇宙人の輪の中に突っ込まれ、言葉も常識も通じないまま生活しろと言われたらと。そのストレスたるや、自死を選ぶレベルに違いない。

 実際に、俺はこのまま牙を喉に喰い込まさせて死のうと思った。

 今や俺の目の前に迫る少女のみが俺の世界で、その少女は安物のコンピューターゲームみたいにロジックエラーを連発している。俺の生きる環境は滅茶苦茶にバグり、攻略不能のクソゲー化を遂げたのだ。

「その…アオって奴に聞いてからじゃなきゃ、ダメじゃないかな……」

 それでも、俺に自殺する勇気などなかったらしい。

 え~!だの、でも~!だの、駄々を捏ねるアカネは幼子のよう。

「……」

 目の前には美しい悪魔。空には幻想的な朝日が輝き始める。

 俺は終着点と決めたこの場所で、変わらぬ夜明けを迎えてしまった。

 其処に在ったのは、死にたくないという願いではなく、恐怖と言う痛みでもなく、怖いという単語でもなく、新しい社会的役割(かんじょう)だった。

 もし、誰かにこの気持ちを説明するとすれば、俺はアカネの写真でも見せるのだろうか?

 いや、それだと別の社会的役割と理解されてしまうだろうか。

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