3
トキオからの告白の有った次の日の昼休み、アカネは一人で中庭に居た。
冬の風が吹く度に、寒さが溜まっていく校舎の陰。錆びた水道が、冷たい水を出し続けている。見ているだけで手先が冷える風景だが、アカネはお構いなしで流水に手を突っ込んでいる。
「妖怪小豆婆の真似?」
「誰それ?」
「妖怪小豆洗いと砂掛け婆を掛けた、高度なギャグだよ」
「分かんない!何の用、アオ?」
アカネはアオの方は振り向かない。どうやら制服を洗っているらしかったが、扱いが雑過ぎて、生地を破ろうとしているとしか思えなかった。
「どうしたの、虐め?」
「違う!」
「違うって。体育してる間に、ロッカーの中の制服に牛乳掛けられたら、虐めでしょ」
「違うもん。私、虐められることしてない」
「昨日は、下駄箱の靴に牛乳掛けられたんでしょ?その犯人、牛乳好きだね」
「手伝いに来たんじゃないの?からかいに来ただけ?」
「俺が女子の制服洗うのを手伝ってたら、逆に虐められるって」
「ケチ」
「ここで応援してる」
「うん」
「ところで、探偵さんは、犯人の目星は付いてる?」
「探偵?」
「君の事。家の探偵家業を手伝ってるって、君のお父さんが言ってた」
「お父さん?何の話をしてるの?」
「は?白いスーツを着た、キツネみたいな顔した人。お父さんでしょ?」
「白いスーツって、所長の事?所長はお父さんじゃないよ」
「そうなのか。騙された」
「アオが悔しがるなんて、珍しいね」
「こっち見てないじゃないか。適当を言わないでよ」
「臭いで分かるよ。アオは悔しがってる」
「臭いで感情を読み取るとか、犬?」
アオが口にすると、アカネはネジが切れたみたいに停止した。
「普通分からないの?」
「………分かるけど」
「そうだよね。変なこと言わないでよ」
アオは、自分はここで死ぬのだと思った。
変な事を言わないでおこうと思ったが、好奇心には逆らえない。
「………アカネってさ、何者?」
「人間だよ」
「人間は、何者だって聞かれて、人間だって答えない」
「そうなの?」
「そうなの」
アオの言葉で、アカネは感情を爆発させる。
若しくは、感情が爆発したかのような行動を取る。
「嘘吐き……嘘だよ!」
「わ!ちょっと、ガチで怒らないでよ!嘘だよ!俺は嘘を吐いた!」
「ほら、嘘じゃない!アオと話してると、何が本当か分からなくなる!」
「いいから、そのコンクリート置いて!学校で殺しはマズいでしょ!?」
「確かに!」
アオに指摘され、アカネは停止。洗い場から引き千切ったコンクリートを、元の場所に戻した。と言っても石は変形しており、元通りにはならないが。
(恐ろしい握力だ。ナイフじゃ勝てる気がしない)
アカネは先程の怒りも忘れたのか、違和感の無いように石片を戻す事に心を砕き出した。アホな事に苦心しているアカネを眺めながら、アオは逃げ出したい気持ちを必死で抑えた。
放課後に2人になれば、アカネは容赦なくアオを殺しにくる。
昼間の学校の中だって、2人きりになって大丈夫だと言う保証はないし、今だって危険だ。
しかし、一応校舎の窓から誰が見ているか分からないし、フェンスの向こうには一般道が通っている。しかも、アカネは制服の洗浄に一生懸命。
安全とは言い切れないが、話し合いをするのには悪くない状況が整っている。
「アカネの虐めってさ、女子にやられてるの?」
「マキはそうかもって言ってた。靴に牛乳入れられた時、『トキオに告白されて、嫉妬した人が犯人じゃないか?』『でも、気にせず付き合った方が良い』って」
「でも、その答えで納得してない感じだね」
アカネは恨みが籠ったような目で、アオを見た。
「いや、なんで睨むのさ?俺はやってないよ」
「犯人は男子だと思う」
「なんで?探偵の勘?」
「…………無くなってた…」
「聞こえないけど?」
「し……下着が無くなってるの!」
なるほど。幾つもの行動理由が入り混じってる。
少なくとも実行犯は女子ではなさそうだ。
「制服にも、牛乳じゃない白いの……着いてたし……」
「それは、それは……あいつら、アホな事を……」
アカネが化け物とは言え、一応は女の子。アオは怒りに似た静かな感情が、胸に点るのを感じた。とは言え、自分はアカネの側には居ないのだから、無責任な正義感に動かされる訳には行かない。
相手の可哀想な状況を利用し、尊厳を嘲笑い、自身に必要なモノを得なければならない。今までそうやって生きてきた。青い炎の一つで灰に出来る程、感動的な人生は送ってない。
「それ付いたまま警察に出す?DNA鑑定とかしたら、犯人特定できるでしょ」
「それは嫌!」
「嫌って……アカネって、センチメンタルな奴だったっけ?」
「うう~……」
「分かったよ。解決方法については口出ししない。でも、トキオの告白が虐めの原因だろ?どうして男が出てくるんだ?」
「分からない!」
「アカネの隠れファンが原因かな?」
「私にファンなんて居ないよ」
「いや、結構……というか、かなりいるよ。下着も盗られるくらいだし」
「う~~~!言わないでよ!」
「だから、俺のは推測。警察に届けてくれたら、犯人分かるんだって」
「それは嫌。嫌がらせなんて無視してればなくなるのに、態々学校に警察なんて入れたら、私目立っちゃうよ。それにサカキ兄の耳に入るのも嫌だし」
「サカキ兄?」
「知り合いの刑事さん。私の事気にかけてくれる人で、所長の懇意のお客さん」
「そいつに虐めなんてダサい事、知られるのは恥ずかしいと」
「そ、そういう言い方止めてよ。私は穏健派なの」
「穏健派………ねえ」
本当にこの娘は、危機感というモノが欠落している。
いや、正直な所、あの機械的なアカネから、『恥ずかしい』なんて感情的なモノを読み取れた事には驚いた。しかし、決定的にズレテいる事は間違いない。
聞いた感じでは、体育の授業中に更衣室に入られ、ロッカーのカギを開けられて中を漁られて下着を盗られて、制服にも如何わしい事をされたらしい。このままエスカレートして、取り返しの付かない辱めを受けるかもしれない状況だ。これで、『目立ちたくない』だの『恰好悪い所を見られたくない』だのの理由で訴えを取り下げるという。
勿論、こういう場面で泣き寝入りをする女の子が居ない訳ではないと思う。しかし、そう言った子は、切実な羞恥心や警察介入という未知の手段に対する躊躇いに依って、解決に二の足を踏むのが原因だ。アカネの様に身内に警察関係者が居て、自身も荒事に慣れている状況とは違っている。
(……いや、危機感が無いんじゃなくて、こいつにとっては男に襲われようが、危機ではないのかも。コンクリートを素手で引き剥がす奴だし)
――それに……
真っ赤に染まったアスファルト。返り血に濡れた美しい肢体。漏れ出る月に照らされた、淡く浮かぶ美麗な顔。心を犯す血色の化生は、誰も彼をも魔性にする訳ではない。
獣の如くに死体を喰らう、あの姿。クラスメイトの水城イチコを貪るあの異形。
女神でなければ悪魔であろうと思えたからこその背徳だ。どうやったって、呑気なアカネと同一人物だと思えない。
しかし、前に学校の階段で脅した時、アカネは何も抵抗しなかった。危機感の無いアカネの事だから、ナイフに怯えていたというのは無い。
それよりは、自分の方に脅されて当然の理由があると考えている感じだった。
『あの現場』を見られたからだろうか。
確かめなくてはいけない。命の危険を冒してまでも2人きりになった理由は、スイに後押しされたからではない。自分の胸の高鳴りを確信させて欲しかったからだ。
――私は私なのだと言って欲しい。
「水城イチコいるじゃないか?今、学校休んでる」
「え?」
「え?って、知らないの、水城イチコ。確かに不良娘で不登校だけど、クラスメイトなんだから、名前位知っといて上げないと」
「え?いや、そうじゃなくて、イチコちゃんは……」
(私が『あの日』に食べちゃいました。だろ?分かってるよ)
「イチコがどこにいるのか、知ってるの?」
「知って……あれ?」
アカネはアオの言葉に混乱し、首を捻っている。『実はアオはあの晩、自分を見ていないのではないだろうか?』なんと思っているのか。
つくづく、この娘は人間的な機能が失われてデザインされている。先天的か、後天的か、性質か、環境か。誰のせいか分からないが、その間違い方には怒りが湧く。
「いや、良い。君が知らないのなら、もう関わって来ないで欲しい」
「うん、分かった」
分かった。アカネはそう言って、全身から殺意を引っ込めた。
『実はアオはあの晩、自分を見ていないのだ』
あれ程執拗に追いかけてきた癖に。命を狙って家にまで押しかけていたのに。たったこれだけの事で疑惑を晴らすのか。
「逆に怖いよ、本当に」
「何か言った?」
「いや。お尻にゴミが着いてる」
自身の危機は去ったのだろうか?
確信はできないが、アカネの在り方に同情を覚えた。試しにとばかりに、馴れ馴れしくアカネに近付いていく。
「え?どこ?」
「アカネには取れないよ。俺が取るから大人しくしといて」
「わひゃ……わ、分かった」
「……」
「と、取れた?」
「もうちょっと、待ってて」
「う~……!恥ずかしい」
アオは知らぬ間に、アカネのお尻から糸クズを取るのに夢中になっていたらしい。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るまで、一人で悪戦苦闘していた。
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