第二章『背丈程の影』1

 嘗ての趨勢を失って、溺れる様に人を吐き出していく三色町。不夜と称えられた町も年を取り、今では哀愁すら漂わせる。

 けれど、かの町の隣には、栄華の残り火を保つ千咲町が存在する。誘蛾の如く輝く町には、万華鏡の様に物語が集う。

 笑いも愛も、憤怒も恐怖も、憎しみも悲しみも。あらゆる声が交わり、ぶつかり、響き合い。時に人を癒し、時に人を傷付け、時に全ての音を忙殺する。あたかも丁寧に塗り重ねられた絵画の如し、重厚な人間模様として後世の人達でも楽しませることだろう。

 そんな町を表舞台とするならば、光に辿り着けなかったあぶれ者達の受け入れ先は、町の裏に潜む一画。

 安宿や特殊な施設の立ち並ぶ治安の悪い地区で、互いに目を逸らし合い、誰もが人生を無用なモノに変換していくことだけにご執心。素性を隠すにはお誂え向きな場所である。

「………」

 黒いコートに身を包み、大きなショルダーバッグを肩に掛けるアオ。ニット帽を目深に被ったまま、糞尿の匂いのする暗い道を速足で歩いていた。

 誰にも覚えられぬ様に。

 誰にも気づかれぬ様に。

 SNSで躍起になる目立ちたがり屋達が聞いたら炎上しそうな欲望を心で唱えながら、安っぽい造りのホテルに入った。受付に無言で千円札を渡すと、受付も無音で鍵を渡す。鍵の番号は302。照明を落とした廊下を進んでエレベーターに乗り、割り当てられた部屋に向かった。

「ん?」

 ドアに鍵を挿す前に、ノブを捻ると扉が開いてしまった。このホテルは浮浪者などが入り込まない様に、空室時には鍵が閉まっている筈だ。

 ホテル側の不手際で開いていたのか?それとも、アカネに先を越されたのか?

 俄かに緊張が高まるが、考えてみればアカネが待ち伏せなんて面倒な方法を取るとは思えなかった。それどころか、鍵を開けっぱなしにして待ち伏せをするのは、誰であろうと片手落ちだと思い至る。

 これは趣味の悪いメッセージと考えるべきだろう。

「こんな嫌がらせをするのは、アイツくらいしか思いつかないね」

 アオは重い溜息を吐いてから、何事も無かったかのように中に入った。

 トイレとシャワーもなく、ほぼベッドしか置いていないシングル部屋。ベッドの脇に申し訳程度に、一人用の小さなソファが置いていた。

「……やっぱりスイだったね」

「お!来たか、不良少年」

「回りくどい事しないでよ、不良警察」

 無人の筈の部屋にいたのは、顔見知りの男だった。男はスーツを床に投げ捨て、ワイシャツ姿でベッドに寝転がっていた。

 天目翠は、籍の上では列記とした警察である。ただし、警察は警察でも、この辺りを取り仕切る悪徳警官である。

「何か用があるの?」

「まあな。いいから座れよ」

「もう座ってるよ。そっちは早く起きてよ」

「そうか?ここの所、忙しくてな。マジ寝しちまうとこだったぜ」

 アオは荷物を床に置いて、ソファに座った。スイは体を起こしてベッドの端に腰かけた。

「嫌な感じのする訪問だね。面倒そうな空気は好きじゃないんだけど」

「お前の好き嫌いでこっちは動いてねーよ。知ってるだろ。最近、ややこしい事件が多発してるって。俺は大っぴらには動けねーのに、態々時間作ってきてるんだろーが」

「事件になってるのは、俺達に関係してる事」

「どれの事言いたいのか分からねーが、大方はそうだ。事故で片付けたいって動きもあるが、それは希望的観測だな。最近は、警察もコンプラだのどうだって観点を輸入しやがったみたいで、事件をとりあえず『事故・自殺』で処理する事が遣り難くなってきてる」

「スイの動きも目を付けられてる?」

「恐らく、まだ大丈夫だ。それでも慎重は期したいから、こんな訪問になった訳だ」

「良く言うよ。ベッドで休みたかっただけでしょ」

「それも無くはないな」

 スイは伸びをし、欠伸を噛み殺した。

 一瞬眠気で緩んだ表情になったが、顔をアオに向けた時には、寝惚けた表情は消えていた。獲物を威嚇する様な、背筋の凍る目だ。

「率直に聞くぞ。『土木作業』と『家出』はどうなってる?」

「土木作業は順調に進んでるよ。残り四分の一ってとこ。家出はまだ時間が掛かる」

「そうか」

「どっちも急ぐよ」

「いや、土木作業は早急にやる必要があるが、家出は慎重にやればいい。色々立て込んでるから、バレない事の方が優先だ」

「そう。土木作業を急がないといけない理由っていうと、連続女性突き落とし事件ってヤツのせい?」

「それも大きいな。大っぴらにやるなって言ったのに、何ニュースに載せてんだよ」

「あれは俺に関係ないよ」

「無関係じゃないだろ?」

「この世で人間に関係ない出来事なんてないよ。プリンを食べたら誰かが死ぬんだから。でも、俺は犯人じゃない」

「それはそうだろがな……いや、いい。とにかく土木作業は終わらせろ」

「終わらせたいけど、頑張ったって速度は上がらないよ。誰か手伝ってくれる人はいないの?」

「いねえ。一人で処理しろ」

「それは今のスイには、手伝ってくれる部下なんて居ないって事?」

「なに?」

 アオの挑発に、スイの眉が上がる。人間の皮がズレて、獰猛な獣の匂いが漏れ出た気がした。

 それ以上生意気吐くと殺すぞ、と分かり易く目が語る。それでもアオは軽口を続けた。

「つまり、スイがグループから見捨てられて、人員を集められな………うく!」

「舐め腐ってんのか!おう?」

 突然大きな音がして、アオが吹っ飛んだ。座っていたソファごとスイに蹴り飛ばされたらしい。ソファの背凭れに背中を強打し、痛みで息が詰まる。どこをぶつけたのか分からないが、グワングワンと天井が揺れた。

 流石は反社会的勢力に属している獣だ。相対するには凶暴性が違い過ぎる。

 しかし、こういう輩に弱みは見せてはならないと、アオは短い人生で学んできた。

(大丈夫だ。へらへらしろ、媚び諂え。どんな恐怖だって、深刻な悩みだって、人に見せるべきじゃない。へらへら顔に全てを隠せ。そうじゃなきゃ、獣っていうのは本能的に噛み付いてくる)

 今の自分は、恐怖を顔に張り付けているだろう。それを見られる訳には行かないと、アオは天井を見たまま話を続けた。

「舐めてるんじゃないよ。俺だって、身の振り方は考える」

「ああ?」

「『家出』は、後一人で終わり。なら、俺はその後どうすればいい?」

「普通に生きていけばいいじゃねーか」

「家出は、俺の復讐さ。でも、スイのグループの失敗の後処理でもあるんでしょ?」

「処理させられてるのが、不満だってのか?」

「違う。俺が知らずに表に出せない仕事をさせられてたのはいい。でも、使い終わった俺を、スイのグループはどうするのかってこと」

「ああ。お前も処理されると思ってるのか?それは大丈夫だ」

「どうして言い切れるの?」

「お前のやってる仕事は、俺の組……っつーのは解散されているが、俺達の元締めの『葉葺組』からの仕事だ。葉葦組は、俺がもう一度組を持つ条件として、今回の不始末の処理を言ってきてる。当然、一人でやれって話だ。だから、お前の存在はそもそも報告してねえ」

「……なるほど」

「そうだ。お前は日常に帰れるんだ。羨ましいねえ」

 スイはにやりと笑い、嫌味なく続ける。

「それとも、血の味を覚えたか?なんだったら、新しくできる俺の組に入れてやらん事も無いぞ。お前は可愛がってる後輩だからな」

「………遠慮するよ」

「そうか。勿体ねーな」

 アオは自分の肩を抱き、震えが収まった事を確認してから、ソファを起こして座り直す。スイは自身の時計を確認しながら、アオに質問をぶつけた。

「どうして急に住処を用意して欲しいなんて言い出したんだ?問題が起きたのか?」

「大した事じゃない。女の子に追われてるんだよ」

「家出の関連か?」

「違う。事件の事は知らない、ただのクラスメイトだよ」

「マジか!傑作だな、色男」

 スイはひとしきり爆笑すると、身支度を始める。

 カチューシャを取ってオールバックの髪を整えると、金髪から黒髪に早変わり。それだけで真面目そうに見えるのだから、人間は恐ろしい。

「もう行かねーと、どやされるな。女遊びは程々にしとけよ。いつか刺されるぞ」

「女は怖いってよく聞くけど、そんなに怖い?」

「怖いのなんのってレベルじゃねーよ。『こいつは俺と同じ人間か?』って、なる事なんて、しょっちゅうだわ」

「そう言うややこしい女の子を、大人しくさせる方法って無いかな?」

「女の詳細は?」

「言えない」

「なら、はっきりした事は言えねーが、話し合いしかねーだろ。いや、話し合いというか、相手に適当に話させて発散させて、気が済んでもらうしかねーよ」

「気を済ます……それが出来ない子だから、困ってるんだよ」

「ならプレゼントでも送って納得させるか、無理なら殴れ。話を聞かねー奴は、人間扱いしねーのが正解だぜ」

「殴りはしないけど……納得させるか……」

「ま、穏やかに済ませろよ。じゃあな。今度女子高生紹介しろ」

「分かった」

 スイが部屋から出て行き、アオは安い部屋に取り残される。独りになると、椅子の背凭れにぶつけた痛みが急に増してきた。

 ソファの肘掛を蹴り飛ばされたので直接的な傷はないが、転んだ時にぶつけた後頭部が痛む。

 それ以上に、胸をざわつかせるのは、スイの凶暴性だ。ああいった理解できないモノに晒されると、どうやったって身が竦む。

 そんなモノが住む、普通じゃない環境。アイツも、自分も、自分を取り巻く世界そのモノも。まともじゃない、まともじゃない、まともじゃない、まともじゃない。

「泣いて、叫んで、狂って、喚いて。そうすることが出来たら、どんなに楽だろう。そんな姿を人間じゃないなんて言われたって、構わない。楽になるならそうしたい」

 心なんて、とっくに挫けている。この道を歩む気力なんて、始まりの時点で存在しない。

 けれど、挫けた心は歩みを止めさせるのではなく、考える力を失わせる。自我を薄め、痛みを麻痺させ、自身を人形だと囁き続けるのだ。

「もう少し頑張ろうとは思う。けど、俺が諦めた所で、この環境は何か変わるのかな?」

 恐らくは何も変わらない。スイに全てを決められたこの環境で、心が有ろうとなかろうと、この手足は動かされる。

 事実だけを言えば、この環境は自分で選んだ道だ。モノを考えない輩に説明すれば、お前の苦しみは自己責任だ、なんて無責任な返答があるだろう。

 けれど、食べ物が無く、飢えに飢えて。その上で手に入った食べ物が毒入りで。中毒になったからと言って、何か落ち度があると言えるだろうか?

「世界が異常なんだから、俺に落ち度なんてある訳がない」

 アオは肋骨が軋む程に心臓を叩き付け、ぶつぶつと痛みを吐き出していく。

「思うに人間にクオリアはなく、現象的なゾンビとして、この世界を徘徊する。だから、俺もスイも嫌な奴って訳じゃない。人間っていうヤツは無色透明で、周りの環境が気持ちを決めてしまう。そう、凝り固まった環境は人間を覆い、『人間の皮』ってヤツになって外から生身の手足を動かす。そこに心なんてある筈もなく、感情なんてものは後付けだ」

 アオは笑みの零れてしまう顔を両手で覆う。

「そう……周りが行動を決めてしまってるだけなんだ。俺はおかしくなんてない」

 アカネを納得させるには、やはり話し合いが必要なのだろうか。

 しかし、それは危険なのだ。そう。本当に危険。

「危険だ……危険なんだよ……」

 彼女が自分を殺しに来たら、殺し返さない自信が無い。

「あはは…はは……」

 脳裏にチラつくは、あの映像。

 真っ暗な空に、銀色に輝く月。

 垂れ流される光に雨に浮かび上がる、真っ赤に染まった彼女の顔。

 簡単に言えばムラムラする。

 乙女の秘密を暴く時の様な、探偵が犯行の全容を知った時の様な。

 命を喰らう当たり前の行為が、あれ程までに輝いて見えるとは

 いっぱい食べる君が好き♪そんなCMソングが脳内で流れて、笑えてきた。

「彼女が殺している姿が愛おしいのか、それとも俺は彼女を殺したいのか……」

 呟いたのは夢に於いてか現に於いてか。

 午睡に沈むこの日にて、真実を知るモノは誰一人としていなかった。

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