水曜日Ⅱ

 開け放した窓からそよそよと風が吹き込んでくる。窓辺に座った七色ななしきしずく先輩が髪をそっと押さえる。窓の外、見上げれば四角く切り取られた星空が人口の光にぼやけ、消えそうに輝いている。


 電気ケトルの中で水が沸騰し、気泡がぽこぽこと音を立てる。インスタントコーヒーの粉をカップにいれて、熱湯を注ぐ。すぐにお湯は黒く染まり、香ばしい匂いがふわりと広がる。


 電子レンジで温めておいた牛乳をふたつのカップに半分ずつ注ぐ。白と黒はもともとそうだったようにすぐに混ざりあい、優しい色合いになった。ひとつはそのままテーブルに、もうひとつには砂糖を二杯。


「ありがとう」


 先輩のそばにカップを置くと、彼女がページから視線をあげた。ぱたりと本を閉じてカップを手に取る。栞を挟んでいないけど、大丈夫だろうか。


「おいしい」


 湯気の向こうで先輩がほんの少し笑った気がした。両手でカップを包むように持ち、先輩は窓の外を見る。ふわりと風が吹き、先輩の髪がなびく。ほんのりと甘い香りが僕の顔を撫でていった。


「私、なにもつけてない」


 香水でも使っているのかと尋ねると先輩は首を横に振った。まあ、そうだろうとは思ったけれど、ならこの甘い匂いはなんだろう。


「匂い、する?」


 先輩が自分の髪を鼻先に持っていってすんすんと嗅いでいる。なんだか動物っぽくてかわいい。僕の言う甘い匂いを発見できなかったのか、先輩は首を小さく傾げた。


「本当に私から?」


 そうだと思う。窓の外から風に乗ってやってきた匂いではない。ここらに花は咲いていないし。なにか匂いがあるとすれば、消毒薬の匂いくらいじゃないだろうか。


「匂い、嗅いでみて」


 先輩はそう言うと髪をぐいとあげて、首元を露わにした。嗅ぎやすいようにと首を右に傾ける。大きく露出した首は陶器のように白く、皮膚の下に青い血管が幾筋か走っていた。


 僕はどぎまぎとしながらも言われた通り匂いを嗅ぐべく、先輩の髪の洞窟へ入り、顔を近づける。なんだかポーズからして吸血鬼になったような気分で、そう思うとあの青い血管がひどく美しく見えてきた。


 いけないことをしている気がする。動悸が激しくなるのを感じながら、深呼吸のように鼻から息を吸うと、甘く蠱惑的こわくてきな匂いが肺の中に充満し、くらくらした。バランスを崩して鼻が先輩の首にあたる。


「ん」


 先輩が声をあげた。僕は猛烈な勢いで先輩から離れ、謝罪の意を表し、その場に土下座した。先輩は気にした様子もなく、本を開いて続きを読み始めた。


 本が逆さまだったのに先輩が気づくまで少しだけ時間がかかった。

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