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 寝ぼけた思考に「ごめんね」という謝罪の声が潜り込む。ベンチから身体を起こして声の主を見ると、拙い文字でノナカと書かれた名札を胸に留めた小柄な少女が僕の目の前に立っていた。彼女の頭部からは何やら液体が滲み出てきており、ノナカはすでに吸水の効果をなさないハンカチを押し付け、噴き出るそれを止めようとしているようだった。病気なのかとササに聞けば違うらしい。汗や血液その他の体液などでもないとササは補足し、雨漏りではないかと続けた。


「雨漏り?」

「ご存知ないのですか」


 閂に身を置いていれば誰しもが罹る可能性のある病だとササは話す。治療法などはいまだに見つかってはおらず、罹ったが最後、閂に降る雨によく似た成分ではあるが所々が僅かに違う水分が体内からとめどなく溢れ、やがて激痛とともに死に至る。死体は即座に腐敗を始め悪臭を放つことから雨漏りになった人間は密かな死に場を求めて失踪することもあるという。

 雨漏りというよりかは水漏れのようにも思うが「そのほうがロマンティックだから」という理由で雨漏りと呼んでいる――とササは誇らしげに得意げな表情で語った。


「ごめんね」


 ノナカは再度謝罪した。感染するものではないようだが、何に対して謝っているのだろうか。あとは死に行くだけなのに。死の瞬間を見せることを申し訳ないということか。それとも、臭いか。いや、それらは僕にとっては何ということもない。死体が手に入るのならばむしろ好都合である。形がどうあれ、若い死体はよく売れるのだ。

 ふと、ササが何やら思い出したように両の手のひらを合わせて口早に、


「そうです、そうでした。ミトカワさん。このままだと死にま」


 僕の一時間前の記憶はそこで途絶えている。


「つまりですねミトカワさん」


 目覚めた時、僕は着衣も何もない状態で公園の花壇の土に横たわっていた。何やら顔を背けているササを問い詰めると、僕の服と髪の一部は溶かされてしまったらしい。頭頂部に触れてみると確かに薄くなっているように思う。最近は伸びるに任せていたからこれはこれで悪くはない。


「それで、僕の服はどこに?」

「話聞いてました? 溶けましたよ。ほら、あれがミトカワさんの服と髪だったもの、それとノナカさんです」


 黒一色のセーラー服の袖から青白い腕を突き出し示した先、自動販売機の横にノナカは立っていた。僕にはそれがノナカには全く見えない。嘘をよく吐く悪霊だ。これも嘘であるかもしれない。けれどそうではないのだろう。

 噛んでいる途中のガム。

 そんな印象を受けた。


 雨漏りはそのうちに彼女の身体を完全に侵し、跡には何も残らなかった。


「僕の服はどうすれば?」

「紫陽花でも使ったらどうですか」


 紫色に咲き誇る紫陽花の花を千切ることは僕の美学に反するが、綺麗事など言ってはいられない。

 ……なるほど、悪くはないのでは。


「しばらくこれで過ごそうと思う」

「私が生きていたら見かけ次第殺していたでしょうね」


 閂町に雨が降る。昨日も今日も、恐らく明日に明後日も。[了]

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