67

 この世界は素晴らしいと誰かが言った。辺境の地の哲学者か、歴史に名を連ねる音楽家か、はたまた道端の物乞いか。


 つい今しがた殺した男はミズシマという名だった。彼には養うべき家族がおり、生活のために夜な夜な人を襲っては金品を巻き上げ、さらには殺し解体して何食わぬ顔で食卓へと肉を届けていたと話した。働いてまともに金を稼げと言いたいところだが、僕のような浮浪者がきれい事を並べたところで説得力の欠片もなかったので殺した。元よりミズシマは自我を失っており、人類を減らすことこそが我が最大の使命だと焦点の定まらない目で語っていたからどちらにせよ人の言葉など聞かなかったかもしれないが。

 最近娘が肉を食べてくれなくてね――とミズシマは力なく笑いながら息絶えた。頬は痩け、飛び出しているようにも見える眼球は白く濁り、気がついたときには事切れていた。

 彼の懐を物色する。期待はしていなかったが財布の中には小銭が数枚ほどしか入っておらず、他には古民家風の住居を背景に家族と並ぶ色褪せた写真が折り畳まれているだけだった。

 これでは殺し損ではないか、と写真を捨てようとすると、ササが口を挟んできた。


「その方の家には行かないのですか?」


 悪魔の囁きとはこのような台詞を指すのだろう。そうだ、確かに。家はあるのだ。そして、どうやら家族もいるらしい。

 家の場所を知っているというササの声を頼りに、ミズシマの家を探しに行くことにした。



 結論から言えばミズシマの家には何もなかった。略奪して得たはずの金品も、食料――食べるつもりはハナからなく肉というものは用途がどうあれ金になる――も何もなく、家族の姿も確認できず、彼の住んでいた一軒家にはおおよそ人の過ごしていた気配というものが何一つ残っていなかったのだ。

 窓ガラスは割れて散乱し、腐食した畳は踏み進むたびに粘着性の汁を吐き出しところどころ穴の空いた靴に染み込む。涼し気な表情で浮かぶ悪霊が恨めしいが、そんなことは知ったことではないとばかりに次から次へとここを開けろそこを調べろと死者は指示を出してきた。


「何もないじゃないですか」

「見りゃ分かるよ」

「普段の行いが悪いからですよ」


 さして大きくもない家全体を荒らし回っても金目のものは見つかることはなかった。ハズレだ。ここ数日雨水くらいしか口にしていない。いっそ、ささくれだった畳の切れ端でも噛めば少しは空腹の足しになるだろうか。

 キッチンの軋む椅子に腰掛け暇を潰していると、玄関の方から声が聞こえてきた。


「ただいま」


 室内に侵入してくる存在。

 それは、確かに殺したはずのミズシマだった。


「屋根と壁があるので悪くなさそうですね。ここを今晩の寝床にしましょうよ」


 ササには座卓の横に腰掛け壊れたテレビの方へと身体を向ける彼の姿が見えていない。この悪霊は自らが生から離れた存在であるにも関わらず、同族に対する認識能力が欠けているのだ。


「元住人が化けて出るかもしれない。ほら、そこに」

「そんな死んですぐに化けるわけないですよ。いいですか? ミトカワさん。死の先駆者として教授して差し上げますが――――」


 よくよく周りを見てみれば、ミズシマの他に黒く薄透明な塊が畳を這い、柱にまとわりつき、天井の隅にうごめいていた。虫ではない。こんなものが生物であるはずがない。


「――――というわけで、この世界は素晴らしいという話ですよ。死ねば都と言うくらいですし。死んでしまえばやりたい放題なのです」


 かつてミズシマだったこの存在は生前と変わらない生活を送っているつもりなのだろうか。彼の考えなど分かりもしないし、そもそもこの影が何なのか知りたくもない。

 死してなお変わりのない生活を送るなど、僕からすればそんな世界はクソだと思う。雨の町をアテも意思もなく――ササのように好き勝手に行動できる者など稀だ――さまようだけの存在など、考えただけで嫌になる。

 ミズシマの写真を放り捨てて廃屋を出る。

 ……ああ、何か食べるものはないだろうか。[了]

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る