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『私の家には普段から大きな箱があった』


 前触れもなく降り出した大雨から逃れるために潜り込んだ廃屋に落ちていた日記は、丸まった筆跡で、このような書き出しから始まっていた。いつ頃に書かれたものなのかは定かではないが、室内に今も充満している湿気を存分に吸い込んで黄土色に変色し、ページをめくろうとすると摘んだ先が千切れる紙の度合いから見て最近のものではないようだ。


「あれですかね」


 ササが指し示した部屋の隅に目をやれば、腐り、踏むたびに粘つく液体が滲み出す畳の上にはひと一人が入り込めそうな箱が置かれていた。


『ある日、父が会社に行くと言って箱に入った。母はそんな父の姿を見て首を吊った』

『私もどうかと誘われていたが、学校へ行きたかったので断った。今日は水泳の授業があったからだ』

『どうしてこの家には風呂がないのだろうか』


 日記は続く。正直なところ指に汚れがまとわりつき、悪臭も酷さを増してきたので今すぐにでも捨てたかったが、僕とともに日記を読む悪霊が先へ進めと催促するのでその願いは叶わなかった。


『学校から帰ってくると母親の死体は食べられていた。犬だろうか。元に戻そうとしても駄目だった』

『仕方なく骨を庭に埋めた。妹は泣いていたけど、肉は嬉しいらしい。一週間ぶりの食べ物だ』

『父が戻ってきた』

『父が帰ってきた』

『夜中にトイレに行こうとしたら妹が箱の中からこちらを見ていた』

『水泳の授業があった』

『私はどうして生きているのだろうか』

『水泳の授業があった』

『父が帰ってきた』


「なんですかねこれ」

「僕が知るかよ」


 破られたのか抜け落ちたページが多く、今まで読んできたものも断片だ。死んだ母親を元に戻すとは、禁忌の術にでも頼ろうとしたのだろうか。父は何度帰ってくるのか。もしや、一人ではない?

 ……疲れているらしい。僕はいったい何を考えているのか。死者は決して生き返らない。横から日記を覗き込んで何やら唸っているササのように、死してなお異形となってこの世に留まり続けることはあるようだが。


 ふと、箱に視線を向ける。

 縁からおびただしい数の手が姿を現し、僕を招くように揺れ動いていた。


「箱……。貰いもののようですね。曾祖父母の入学祝いで、誰も喜ばなかった」

「ササ。あれが見えるか?」

「箱です? 先ほど中を確認しましたが、特に何も入っていなかったですよ」

「ここから出るぞ」

「え、え? 待ってくださいよ!」


 自らが幽霊でありながら、ササには同族を視認することができない。

 僕には見える。見えてしまう。

 しかしそれは決して鮮明ではなく、おぼろげでしかない。

 それが今、明確に目に映ってしまっている。


 この狭い部屋には何人が存在している?

 あの箱は今にも弾けそうなほど膨らんでいただろうか?

 

 小言を連ねながらも付いてくるササを半ば無視して雨の中へ駆け出す。

 肩越しに廃屋を振り返ってみると、玄関だった場所には一人の見知らぬ少女らしき姿があり、別れの仕草のつもりだろうか、それとも怨恨の込められた儀式だろうか、顔のあるべき場所から生え茂った毒々しい触手を前後左右に振っている光景が見えるだけだった。[了]

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