53
潜り込んだ廃ビルの屋上の縁に、一人の少女が腰掛けていた。彼女は僕の存在に気がつくと緩やかな動作で振り返り、片手を突き出し接近禁止の合図を示してきた。
「おっと、おじさん。それ以上近づいちゃ駄目だからね」
「僕はおじさんではない」
「おじさん、ろくでもないものに憑かれているね。いわゆる悪霊ってやつだ」
僕の言葉を聞くわけでもなく、なおかつ近づくなと言っておいて自ら歩み寄ってくる少女。
まさしく悪霊であるササが生前から流用しているものによく似た黒一色のセーラー服とスカートを着用しているところを見るに、あの学校の生徒だろうか。僕が通っていた当時と比べて僅かにデザインが変わったようにも思えるが、十年は経っているのだ、マイナーチェンジが行われていても不思議ではないだろう。
「ふむふむ。なるほどなるほど。女性だね。すらりとした美人さんじゃあないか。私ほどじゃないけど」
確かにササの体型は痩せ型ではある。痩せているというよりかは身体全体に栄養が行き届いていないと表現したほうが正しいと思われるほどには凹凸が少なく手足は細く、かといって病的なほど痩けているわけでもないが、それでもまあ、痩身ではあるだろう。相貌に関しては僕からの意見はこれといって特にない。
「こいつが見えるのか?」
「見えないよ。私、目が機能してないんだよね」
非対称に長く伸びた黒い前髪をかき上げた少女の片目は白く濁り、もう一方には厚手の眼帯が装着されていた。確かにこれでは見えるものも見えないだろう。
それに、存在していることそのものが人に対して害となるササの姿を視認したのならば、彼女はすでに死んでいるはずだ。
「生来のものでね」
キヌガワと名乗った少女は、僕が聞いてもいないのに自らのことを語り始めた。
視力こそないが他者より遥かに聴覚が優れており、また、空気の流れを読む――キヌガワはそれを感知と呼称した――ことにより、おおよその全体像くらいは把握できること。さらにそこから発展して、自らに危険が迫れば事前に回避ができるようになったこと。好物はバウムクーヘンであること。
そして今現在、自殺を企てているということを特におくびにも出さず、ただただ自己紹介の一端であるというように、平坦に続けた。
「おっと。止めないでね」
「僕はお前が死のうがどうでもいい。ただ、どうせ死ぬなら金になるようなものは残しておいてくれ。回収するのが面倒だ」
「いいね。確かにそれは合理的だ。それじゃ、これ。私の全財産だよ」
渡された財布を開く。運転免許証が挟まれており、それはキヌガワのものではない別の男性のものだった。
「もし他に欲しいものがあるなら持っていくといいよ。下にいるから」
下――ここは廃ビルの屋上である。縁に立って地上を覗き込んでみると、そこには倒れている人の姿が見えた。
「背後を取られるなんて不用心だね。落下願望でもあるのかな」
気配もなく近づいてきていたキヌガワは僕の背中に靴の底を押し付け、僅かに力を入れた。付近に掴むようなところはない。体勢も不安定だ。もう少し力を加えられれば、たとえ少女の力であっても、地上七階からの墜落は免れないだろう。
しかしキヌガワはそのようなことをすることはなく、冗談だよと足を離した。
「少し汚れたかも。ごめんの証にこれもあげるよ」
また違う財布を寄越してくる。レシートやら割引券やらが雑多に詰め込められてはいたが身分を証明するようなものは入っておらず、小銭が数枚見えるだけだった。
「まだ足りないようなら他にもあるけど」
「何人を殺したんだ?」
「さあ? 近づいてくる人はみんな殺したから」
「僕も殺すのか?」
腹を抱え、邪気の感じられない声を上げて笑うキヌガワ。今のどこがツボに入ったのだろうか、うずくまって身体を震わせている。
やがて立ち上がったキヌガワは深呼吸を繰り返して息を整えると額ににじんだ汗を手首で拭い、
「そんなことしたら死んじゃうでしょー。嫌だよ。私は自分の意思で死にたいんだ」
と、笑いの余韻が残った表情で告げた。
◇
「私は殺すべきだったと思います」
キヌガワに貰った財布の中身を並べ、これでしばらくは裕福に暮らせると内心ほくそ笑んでいると、後ろ手に腕を組んだササがどこか怒気を含んだ声色で話しかけてきた。
ササは結局、最後までキヌガワに声を聞かれることも姿を見せることもなかった。視覚に関してはキヌガワの体質もあるが、声すらも届かないのは珍しい。人を憎み、命を奪う存在にも殺せない者がいるのか。
……いや、いる。キヌガワと同じく、ササが全く触れられない人間が、僕の知人にもう一人いる。そうだ。ああ、どうして思い出せなかったのか。
「妹だ」
「妹?」
「さっきの子、ヨモツの妹だ」
ふと、線香の香りを含んだ消毒液のニオイが漂ってくる。
再び屋上の縁から地上の様子を窺ってみると、死体の側に立ち、こちらを見上げている顔なじみのなんでも屋――キヌガワ ヨモツが手を振る姿が見えた。その傍らには先ほどの少女が遺体に金槌を振るう姿。以前にヨモツも人を突き落とし金槌で叩いていたが、そんなところが似通わなくても良いのではないか。
「今からでも遅くないです。
怒りを隠そうともせず地団駄を踏むササ。
見上げると、雨粒が顔に落ちてきた。
閂は本日も薄暗く、雨天である。それは、ろくでもない人間たちにはふさわしいように思えた。[了]
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