52
「おはよう」
机を挟んだ向かいの椅子に座るのは初老の男。
白と灰の混ざった髪を掌で撫で付けた後、男はナイフとフォークを動かし妙に毒々しい色の茸と生焼け部分の多い肉を交互に口へと運んでいく。唇の端に付いた血を指で拭うと男は「食べないのかい」とこちらに促すようにナイフを突きつけてきた。
「そうか。まあ、仕方がないさ。好き嫌いというものは誰にだってある。パパも君のことが嫌いだからね。なに、親だからといって別に好きである必要なんてないんだ。お互いにね。血の繋がりだなんだと綺麗事を言ったところで結局は他人だ。無理することなんてないさ。いらないものはいらない。それに、幸いかな。そう、普段から言っているだろう? 君以外にも娘はいるんだ。妻もね。足りてるんだよ。女は。どうして男に生まれなかったのかな。いや、どうして生まれてきたのかな」
酒を飲んでいる風でもないのにやたらと饒舌な男である。相手の反応を待つ様子もなく一方的にまくし立てるその姿は初対面ではあるがどうにも好印象は受けなかった。
娘。
娘とは誰のことを指しているのだろう。というかこいつは誰なのか。どこか見覚えのある微笑み……いや、この男の笑顔は嘲りだ。自覚の程は知らないが、表情の意味を理解するべきだ。もしかしたら全てを知った上で顔を作っているのかもしれないが、そうであるならお世辞にも性格が良いとは言えない。
「怖い顔をしないでおくれ。冗談だよ」
ナイフとフォークを投げるように皿に放り、両の掌を打ち鳴らして大声を部屋に響かせると、男は張り付かせた笑みのまま、
「それで、ササ。いつ死ぬかは決めたのか?」
僕――いや、違う。僕の背後に声を掛けた。誰かが後ろに立っている。ササと呼ばれた誰かが立っているのだろう。振り向こうとするが、頭頂部から杭でも打ち込まれているかのように身体が言うことを聞かず、どのような人間がいるのかは確認できなかった。
男が再び僕の後ろに向かって詰問するかのように「死ぬんだろう?」と続けると、問われた相手――確かに存在を示す、澄んでよく通る声――は、
「はい。お父様」
と、感情の窺えない無機質な答えを短く返した。
「おお! やっとか! いつにするんだ? こちらにも用事があってね。知っているだろう? この町は今マシュマロで大盛り上がり……する寸前なんだ。明日は式典でのスピーチ、明後日は取材を受けることになっていてね。それで、その……恐縮だが、今が一番パパにとって都合が良いんだ。すぐに死んでくれないか? 頼むよ。ママだってそのほうが良いと言うさ。おおい、ママ! ちょっと来てくれ!」
「ところでお父様」
「ん? もう言うことはないぞ。ほら、早く死んでくれよ。まさかその歳になって一人じゃできないなんて言わないだろうな。ああ、恥ずかしい。恥ずかしいぞパパは。今までだってそうだった。何度も何度も何度も何度も言ったじゃないか。手首を切るときはこう、首を括るならこう結ぶんだぞと。あんなに練習したのにまだ分からないのか。仕方がない。できないのであれば姉さんたちにでも手伝って――」
「お父様。お肉は美味しかったですか?」
瞬間的に、眼球の奥で鮮やかな火花が弾ける。
次に気がついた時、仰向けで寝転がる僕の目の前にはササが立っていた。
「おはようございます」
「……ああ、おはよう」
「忠告しましたよね。この辺りの茸は毒そのものだって。あ、野草も駄目ですよ」
記憶にない。腹が減りに減り、倒れる寸前まで空腹だったことだけは覚えているが、一面に広がる茸を目にした後、僕がどのような行動を起こしたのか全くもって思い出せない。いやまさか。僕にだって理性というものはある。これほどまで私達は毒ですよと主張の激しい茸を口にするはずがない。多分。僕は自分を信じられない。
つい先程まで確かに見ていた光景が、時間と共に薄れゆく。夢とはそういうものだ。もしかしたら僕の食べた毒茸のせいかもしれないが、そんなことはどうでもいい。思い返したところで意味などあるはずがない。辿るだけ無意味だ。
「どうせ焼いて食べるならお肉にしたらどうですか」
……なぜだろう。特段好物というわけではないが、今の僕は肉を食べたいとは思わない。
その原因は、今となっては分からない。[了]
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます