26

 夕食時を小一時間ほど過ぎた頃合いだというのに、大半の店がシャッターを閉じ閑散としたアーケード街の片隅にその男はいた。

 胸元のポケットに差し込まれた名札を窺えば、オフィスチェアに腰を下ろした彼の名はスズリというらしい。


「おはようございます」


 事務的な笑みをたたえてスズリは声を掛けてきた。徹頭徹尾単調な声色で、特に僕のことを歓迎しているようではないようだった。いや、快く受け入れられてもそれはそれで困るのだが。


「本日はどのようなご用件で?」


 僕は雨宿りのためにこの場所を訪れただけだ。民家の側を通った際に漏れ聞こえていたラジオから流れていた天気予報では今夜はそこまで悪天候ではないはずだったのに、背後から吹き荒ぶのは強風、そして屋根では大粒の雨が弾けている。未来予知をしているわけではないとはいえ、予報は予報、どうにも当てにならないものだ。


「隣の課に聞いてみてください」

「隣の課に聞いてみてください」

「隣の課に聞いてみてください」

「隣の課に聞いてみてください」


 無視して通り過ぎようとしたのがまずかったのだろうか。スズリは目元を痙攣させながら同じ言葉をただひたすらに繰り返すようになっていた。隣とは。課とは。

 そもそもこいつはなんなのだろう。丈の合っていない使い古しのスーツに、葬式用のものだろうか、それとも単に何年も同じものを身に着けているだけなのだろうか、光沢のほとんど見られない黒いネクタイをすぐにでも解けそうなほどに緩く締めている。今さらではあるが、こいつは人ではないものだろう。


 まともな人間であるのなら、自らの手足を椅子に釘で打ち付けて平然としていられないはずだから。


「マシュマロはもうやっていないです」

「マシュマロはもうやっていないです」

「マシュマロはもうやっていないです」

「マシュマロはもうやっていないです」

「マシュマロはもうやっていないのですか?」


 スズリの背後に音もなく現れた黒一色のセーラー服とスカートを着用した少女が、さも残念であるかのような口ぶりで問う。

 彼女の姿を間近で確認した、してしまった不幸な男――悪霊である少女曰く「私を見、声を聞くことそれは即ち幸福なのです」だが――は、ほんの一瞬驚いたような表情を浮かべ「本日の営業は終了しました」とだけ口早に答えると、キャスターを滑らせて逃げるように消え去っていった。


「おや、忘れ物が点々と」

「何をした?」

「私は特に何も。ただあの方はどうにも忘れっぽい性格のようですね。自分の目や足、内蔵の一部などが進むたびになくなっていったら、普通は気づくはずなのに」


 スズリの姿が見えなくなった廃屋の角を覗いてみるとそこには椅子が一脚、持ち主不在のまま力なさげに回っているだけだった。[了]

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