10

 雷鳴と共に降り出した突然の雨から逃れるため、古びた劇場に潜り込む。

 侵入の際には人の気配は感じられなかったが、ホールの中ではリハーサルが行われているらしく、掛け合いの声が聞こえてきた。

 

 僅かにハスキーな女の声の鬼気迫る叫び声に続き、訥々とした男の台詞。扉一枚挟んだ外側からではよく聞こえないが、こちらも怒りを内に秘めているように聞こえる。言い争いの場面なのだろうか。


「これは……彼岸花に雨は降る、ですね!」


 聞けば、男女の悲恋を描いた劇だという。舞台方面には明るくなく、初めて知る題名だった。

 僕が興味を示さなかったことを特に気にせず、ササは上気した表情で――彼女はすでにこの世を去っているためあくまでもそう見えるだけであり、顔色は相変わらず青白いと留意しておく――語っていた。


 意外にも、と言ったら偏見だろうか。この悪霊は恋愛物に造詣が深いらしく、何々の作品に影響を濃く受けているだとか、音響やら照明のこだわりが細部に渡って練り込まれていて素晴らしいだとかを嬉々として教えてくれた。

 正直に言って興味のきの字も出てこなかったが、普段世話になっていることもある。理解したフリをしつつ話を流した。


「聞いていませんね? まあ良いです。フィナーレが素晴らしいのですよ、この劇は」

「どうなるんだ?」

「せっかくの機会です。もう少しなので聞いてみましょう」


 劇は進む。


 男が女の部屋を訪れると彼女はすでに事切れていた。焦燥する男。どうやら自殺らしく、謝罪の言葉と慟哭がこだまする。

 そして男は、女の死体から眼球を取り出し口に入れ――終幕。


「……ああ、本当に良いお話です」


 ……なんだそりゃあと思わず言いかけて止めた。彼女が好きならそれで良いのだ。僕が異を唱えることではない。しかしいったい、全体はどういった流れの物語なのだろう。若干だが気にはなる。


「少し役者さん達を見てきますね。それくらいなら許されるでしょう」


 浮き立つ気持ちを抑えられなくなったのか、宙を泳ぐように飛んで行く幽霊。外面はどこか儚げな雰囲気を思わせる幸薄そうな少女であるが、彼女の姿を見た生者は例外なく狂気に陥り自害する。故に、彼女は悪霊である。

 彼女の血肉を体内に取り込んでいる僕はどうやらその限りではないようだが、それがいつまで続くのかは分からない。


「みみ、ミトカワさん。誰もいないのですが! いえ、いるけど、いないのですが!」

「どういうことだ」

「二人分の骨があるだけなんですよぉ! 誰も人がいないんです! 先程までの劇は誰が演じていたのですか!?」


 瞬間の暗転、そして轟音。どうやら付近に雷が落ちたらしい。気がつけば入口の照明は消えていた。停電――いや、もしかしたら元々点いていなかったのかもしれない。よくよく見れば、ここは廃墟ではないか。


 誰に見せるでもない演劇。招かれざる客は退散するべきなのだ。僕たちは逃げるように劇場を後にするのだった。[了]

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