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「おはようございます」


 段ボールを通して伝わってくる冷えに耐えきれずに身を起こすと、眠ることのない少女、ササが声を掛けてきた。十数年ほど前にこの世を去っている彼女は睡眠を必要としない。羨ましい限りだが、そうぼやくと「お昼寝ができないことは死ぬよりも不幸なのです」と機嫌を損ねるため黙っておくのが吉だと以前に学んだ。


「ああ……」

「珍しいですね。こんな夜更けに起きるだなんて」


 自慢だが、僕はどういった場所であっても早く深く眠ることができる。これは何年も宿無しで暮らしたことにより染み付いた生活習慣なのだろうが、それ以上に、寝ている間はササが周囲を見張ってくれているという安心感が大きい。彼女は生前の行いから悪霊と化してしまったが、この件に関してはその限りではないと言えよう。


「寒くないですか?」


 焚き火台代わりに使っていた一斗缶から火が消えている。霧が出ているところを見るに、湿気ってしまったのだろう。

 這いずって缶へと近づきマッチ箱を探すも見つからず。仕方がない。肌寒さは耐えることにしよう。


「ミトカワさん」

「ああ……」

「飛んで火に入る夏の虫、って言いますよね」


 正面の壁に背を付いて座り、立てた両膝の前で手を組んだ少女がつぶやく。

 ……何だろう、こいつが脈絡のない話を始める時にはどうにも嫌な予感しかしない。


「私は悪くないと思うんです」

「……」

「むしろ悪いのはミトカワさんです」

「……」


 暗闇に目が慣れ、霧の中にササの青白い顔が浮かび上がってきた。均整の取れた彼女の目鼻立ちはどこか人形のような無機質さがあり、それなりに長い付き合いとなった今でも彼女の表情から本心を知ることはできずにいる。


「ミトカワさん。どこでも寝られるのは素晴らしいことだと思います。ただ――」

「ああ……」

「ただ、このような自殺の名所で寝ていると意図せずとも寄って来てしまう、というお話ですよ。私には彼らが見えたのです。けれど彼らには、自分より先に来て死んでいた一人の男の姿しか見えなかった」


 ササの視線は僕の後方、その頭上に向いていた。割れた窓から風が吹き込むたびに少女の双眸も僅かに左右する。

 そう、彼女は悪くない。悪霊だが、今回ばかりは悪くない。

 ――ああ。

 振り返りたくない。[了]

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