そして

   

 ただのサークル仲間の時は「八坂さん」「吉田くん」と呼び合っていたが、恋人同士になってからは「ゆきちゃん」「よっくん」というニックネームになった。

 呼び方の変化なんて、些細なことなのかもしれない。でも、それまで一度も恋人なんて出来たことない俺にとっては、これも「付き合い始めた」と実感できる、大きなイベントだった。

 もちろん、それ以上にハッキリ「付き合い始めた」と感じられる体験もあった。そう、いわゆる初体験というやつだ。若い大学生カップルなだけに、俺も八坂さんも、体で愛し合うことを自然な流れだと思っていたのだ。

 特に俺は、行為そのものだけでなく、終わった後にギュッと抱き合ったり、手を繋いだりしているのが好きだったので……。

 あの会話も、いわゆるピロートークの一つだった。


 空いた方の手で俺の髪をいじりながら、八坂さんが、ふと呟く。

「よっくんの髪、かなり伸びてきたわね……」

「うん。ゆきちゃんには、まだまだ追いつかないけどね」

「あら、私と張り合うつもり?」

 冗談とわかった上で、そう言って笑う八坂さん。

 付き合い始める前から、俺は彼女の黒髪を素敵だと思っていたが……。こういう関係になって以降、その想いは、いっそう強くなっていた。

 特に、体を重ねる時。それも今現在のような、汗で濡れた事後ではなく、これから始めようとする時。彼女がベッドに倒れ込む度に、パサーッと広がる長い黒髪と、白い裸身のコントラスト。それはエロティックを通り越して、もう芸術的な美しさなのだから!

 ……ほんの二時間くらい前に見た光景を、改めて頭の中で思い描いてしまう俺に対して、

「よっくん、そろそろ髪留めが必要ね。そのままだと鬱陶しいでしょう?」

「まあ、そうだけど……。でも、これくらいの長さだと、まだ束ねるのは難しそうだな」

「たぶん、後ろで縛るには十分よ。私の髪留め、貸してあげるから」

 と言って、いったんベッドを出る八坂さん。

 そして小さなバッグから何かを取り出し、戻ってきた。

「はい、これ」

 八坂さんが俺に手渡したのは、黒いゴムの髪留め。

 こういうものを女の子が使うことくらい、俺も知識としては知っていたし、遠くから見たこともある。けれども、こうして手にするのは初めてだった。

 ワンポイントのアクセサリーすら付いていない、シンプルなタイプ。一見、輪ゴムを黒くしただけだが、触った感触は、輪ゴムとは大違い。布でコーティングされているらしい。

 そうやって好奇の目を向ける俺の姿は、いかにも「慣れていない」と見えたのだろう。

「よっくん、初めて使うのよね? じゃあ、私がやってあげる」

 彼女は簡単に、俺の後ろ髪をゴムでまとめて、

「はい! 次からは、自分でやるのよ」

 満足そうな笑顔を浮かべるのだった。


 こうして、俺はゴムで髪を束ねるようになったのだが。

 あくまでも、後ろ髪だけ。まだ「前髪も後ろで一緒に縛る」というほどの長さではない。

 だから前髪は、軽く左右に分けておくようにしていたし、普段はそれで問題なかった。だが、バサバサと目の前に覆い被さって困る時もある。激しく体を動かす時、特に両手が塞がっていて髪をかき上げることもできない時……。

 要するに、体を重ね合う時の話だ。

 もちろん、俺が下になるのであれば、そういう問題も起こらない。でも多くの場合、ベッドに仰向けに横たわるのは女性の方であり、その体の上に、彼女を見ながら乗っかるのが男性。そうすると、前髪が鬱陶しくなるわけだ。

「なるほど。女は普通、男より髪が長いから、上に乗ると髪が邪魔になる。だから男が上になる方がであり、そういう体勢を位と呼ぶのだな」

 と、ひょんなことから、一つの真理を悟った気がした。

   

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る